15歳 中学校4年生
「日比野寛伝 体育への熱意:三、小酒井不木の場合」(『日比野寛』・昭和34年5月11日発行)
小酒井が、愛知一中の四年級になったその一学期に、彼は父を喪った。そのため、老年の義母との二人暮しになった。
「自伝」(小酒井不木 『中京朝日新聞』 大正15年1月?)
父は私の十六歳の夏継母は二十五歳の冬に死んだので、
「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
三年生時の第二回(三十八年二月十三日実施、六十号一六八〜一六九頁)、四年生時の第三回(三十八年十月十六日実施、六十一号一一八〜一二一頁)では入選していない。
「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
数学の即席懸賞問題は、三年生の時に始まった。
第一回は、明治三十八年二月十七日金曜日の午後一時から二時間行われている(『学林』第六十号一六九頁)。三年生以上には代数と幾何が、二年生以下には算術が出題されたとある。
当選者の中に、小酒井不木の名はない。
「日比野寛伝 体育への熱意:三、小酒井不木の場合」(『日比野寛』・昭和34年5月11日発行)
小酒井は、そんな風であったから、いつも活気に乏しく、蒼白い顔をして机にかじりつく部類であった。日比野は、小酒井の陰気な姿を気にかけ、なんとかして、陽気な性質にたたき直してやろうと、或日彼を校長室に呼びつけ、「健康のため、野球部にはいれ。」と命令した。内気な小酒井は、校長の命令を断ることができず、心ならずも野球部員として名を連ねることになったが、遣る気にならんのか、生来不器用なのか、どのポジションをやらせてもてんでものにならなかった。その頃の愛知一中野球部は、第二黄金時代に入っていた時であったので、日比野は、頭の良い小酒井にキャプテンをやらせることにした。
「会報 雑誌部 ○役員異動」(『学林』第60号・愛知県立第一中学校学友会・1905(明治38)年7月12日発行)
「小酒井不木の中学時代(四)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第162号・名古屋近代文学史研究会・平成19年12月10日発行)
三年級(五十八号二二〇頁)、四年級(六十号二二七頁)は二学年続けて、乙組の正組長に任命されている。
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三年級(五十八号一二九頁)、四年級(六十号一五四頁)、五年級(六十二号五十九頁)は乙組の幹事に「小酒井光次」と記載されている。
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小酒井光次は四年級で編輯員に(六十号一五四頁)、五年級で庶務員に(六十二号五十九頁)選出された。
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不木はこの他に、野球部のマネージャーにも選ばれていた。
明治三十八年度、四年乙組の野球部マネージャーとなる(六十号一七四〜一七五頁)。
五年級のときも乙組マネージャーになっている(六十二号一〇五頁)。
「追憶」(小酒井不木 『学林』 昭和4年3月10日発行)
いふまでもなく、その頃母校の校舎は片端にあつた。七間町と呉服町との間に、あやふげな黒板塀で囲まれて居たグラウンドの姿が、一ばん印象に鮮かである。ホームベースのところに桜の老木が一本あつたやうに記憶する。その老木の根本に腰を下して、選手たちの猛烈な練習を見て居る時の無心さ! その頃の野球選手は大てい私と同クラスで、中埜、伊藤、久保など、何処へ出しても恥かしくない人たちであつた。鵜飼、加藤の黄金時代から、一中は野球で天下に名をなしたものである。今もなほ一中軍の試合が新聞に報ぜられるごとに勝敗如何にと気が揉めるのは、まことに当然のことである。
「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
三年生時の第二回(三十八年二月十三日実施、六十号一六八〜一六九頁)、四年生時の第三回(三十八年十月十六日実施、六十一号一一八〜一二一頁)では入選していない。
「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
第二回は四年生の時、明治三十八年十月二十三日月曜日の午後一時から二時間行われた(六十一号一二二〜一二三頁)。小酒井光次は第十九等に入選している。
(公開:2009年2月9日 最終更新:2021年5月15日)