14歳 中学校3年生
「日比野寛伝 体育への熱意:三、小酒井不木の場合」(『日比野寛』・昭和34年5月11日発行)
この課題は、後に「即席課題」または「気根培養試験」といって、国語、漢文、数学に学級とは係りなく課題を出して、生徒の実力を試すことを目的とした、日比野の独特の教育方針の一つで、成績優秀なものには、賞状を与えて表彰したものである。
「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
英語の即席懸賞課題が最初に行われたのは、明治三十七年三月だった。低学年は五日の土曜日に実施され、『学林』には、「第一、第二年級生に対して英文和訳、和文英訳、及び書取の競争を行ひ当選者には賞与を授与せられり」とある。「二年 小酒井光次」の記述が、一二年生の受賞者三十一名のうち十九番目に見られる(五十八号一四六〜一四七頁)。
「会報 雑誌部 ○役員異動」(『学林』第58号・愛知県立第一中学校学友会・1904(明治37)年7月12日発行)
「小酒井不木の中学時代(四)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第162号・名古屋近代文学史研究会・平成19年12月10日発行)
三年級(五十八号二二〇頁)、四年級(六十号二二七頁)は二学年続けて、乙組の正組長に任命されている。
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三年級(五十八号一二九頁)、四年級(六十号一五四頁)、五年級(六十二号五十九頁)は乙組の幹事に「小酒井光次」と記載されている。
『新愛知』 明治37年5月5日付
県立第一、私立明倫両中学校にては招魂祭当日北練兵場の一部に於て余興として連合大運動会を催すべく昨今準備中なりと
『扶桑新聞』 明治37年5月6日付
両中学校運動会 本日午前七時より第三師団北練兵場弁天の森北東に於て愛知県立第一中学校及び明倫中学校連合運動会を催す由
『扶桑新聞』 明治37年5月7日付
昨日は朝来稍曇天の気味なりしも正午頃より漸く好天気となりたれば続々と練兵場付近へ詰め掛けたる人山を築く計りにて競馬場、角力場、第一、明倫中学校運動会場何れも参観人を以て埋もれたり
「○佐藤信章君の逝去」 『学林』・第58号・1904(明治37)年7月12日発行
第三年級障害物競走は幾千人の歓呼場裡に終りしが、嗚呼忽然意外の災厄出で来れり、我校の第三年生なる佐藤信章君、突然心臓麻痺にて斃れぬ、校医始め、赤十字社医員等も力を尽して手術を施されしが、遂に其効なかりき。(略)茲に競技を中止し、一同悲哀に打たれて散会したり
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君いと勇ましげに其技を演ぜらるる中、俄然として心臓麻痺起り、校医赤十字出張医等の手当も其甲斐なく、忽然無常の風に誘はれて、黄泉の客となられむとは、神ならぬ身の誰か之を予期し得べき。
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直ちに運動会を止め、君の屍を家に送り、八日午後四時君を周泉寺に葬る。職員一同及生徒之に会し、君が霊を慰めり
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本校に於ては、越て九日、職員生徒一同講堂に会し、亡佐藤君の為めに追悼会を開き
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翌九日午前九時生徒諸氏の追弔文は講堂に於て読まれぬ
参考:「小酒井不木の中学時代(一)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』・名古屋近代文学史研究会・平成18年12月10日発行)
「小酒井不木の中学時代(五)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第163号・名古屋近代文学史研究会・平成20年3月10日発行)
柔道の試合が、明治三十七年六月五日の日曜日に、西運動場で催された(『学林』五十八号一九一〜一九三頁)。不木が三年級のときである。
午前七時から始まった試合は、一年級から順に進み、「午砲と共に終を告げ一同解散」とある。
組み合せ表には、三年級の十八番目に「小酒井光次」の名があり、深谷秀治に負けている。
「小酒井不木の中学時代(五)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第163号・名古屋近代文学史研究会・平成20年3月10日発行)
このほか、二年級の二番目では、尾崎久弥が吉田悦太郎に負けている。
「小酒井不木の中学時代(五)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第163号・名古屋近代文学史研究会・平成20年3月10日発行)
運動会は、例年春と秋に行われ、『学林』には各競技の上位入賞者名が記録されている。
入賞者の記録に、小酒井光次の名前は見つからなかった。
ただし、三年生時の秋季陸上大運動会で、「五年、四年、三年甲、乙、丙」の「正副組長千鳥競争」が行われていた(五十九号二一四頁)。
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この運動会は、明治三十七年十月二十三日に西運動場で開かれた。
(公開:2009年2月9日 最終更新:2021年5月15日)