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医家千字文

 

 小酒井不木

 

「医家千字文」は今年より数へて恰度六百三十五年前、即ち永仁元年に編纂されたもので、この種のものとしては稀覯に属すべき文献であると思ふ。内容は表題の如く、千字文をもぢつて、漢法医術を説いたもので、先づその序にいうて曰く、
「盖し聞く医道は林の如し、学者未だその萌芽を得ず、□□は海の如く、学者未だその涓滴を得ずと。世に愚者ありて曰く方を読むこと三年なれば便ち天下に病の治すべき無しと謂ひ、病を治すること三年なれば乃ち天下に方の用ふべきをなきを知ると。誠に是れ遠くして望み難く、深くして測り難きの故なり。爰に草沢の孤陋、薬石を独学に嗜むありて、猶精微の道に暗く、徒に粗賎の思ひを馳せ、唯病に対して(※1)了せず、譬へば目無くして夜遊ぶが如し。然り而うして鑽仰春を送り、永日を喜ぶあり、渉猟雪に映じて未だ稽古に倦まず。肆に一巻の書を勒して、名づけて千字文といふ。凡て乾象坤儀の部を分ち、二十一韻を次いで、浅見寡聞の知に任せ、二百余言を談ず。昔周興の千字を集むるや、儒材を蓄へ、一日の功を終ふ。今魯愚の千字を集むるや、医書を披きて十全の要を(※2)ふ、即ち立意を以て宗となさず、能文を以て本となさず。
 時に永仁元年大呂中旬 惟宗時俊撰」
 この時俊なる人が何人であるか、今闡明する時を持たないが、その註に引用されたる医書を見ると、驚くべき博識の人であつたやうに察しられる。引用書の一二を挙げるならば、「千金方」「八十一難経」「存真図」「活人書」「太素経」「明堂経」「大平広記」「本草釈」「医説」「新修本草」「桐君録」「証類本草」など枚挙に遑なき程である。これらの参考書から一々註が施され、その一例を記せば、
「足即地方。脚履湿痺。大素終曰、天図地方、故人頭図足方以応之、千金方曰、心肺二蔵、経絡所起在之于十指、肝腎脾三蔵、経絡所起、在足十指、夫風毒之気、皆起於地、地之寒暑風湿、皆作蒸気、足常履之、所以風毒之中人也、必先中脚、久而不差、病原論曰、風寒湿気雑至、合而成痺病在陽曰風、在陰曰痺」
 と云ふが如くである。この時代に、この引用書の如き医書がこれ程沢山輸入されてゐたことも注目すべき点である。
 本の体裁は大本、本文四十丁より成り、序文一丁を加へてゐる。表題の下部が破損し、医家千字まで読み得るが、残部がない。恐らく「医家千字文扞序」とあり、本文の題には
「医家千字文註 散位正五位下惟宗時俊撰」
 と記されている。
 奥付は、
 永仁元年十二月十日撰抄之同二年三月一日写畢 時俊〔花押〕
 同四年十一月十八日扶病校二千石尚康己了
 受庭訓了 山俊
 文章生 于時玄輝門院侍中 貞俊〔花押〕
 製本所 尾州名古屋本町通七町目 片野東四郎
とある。片野東四郎とは云ふ迄もなく永楽屋のことである。

 

(※1)「目偏」に「堯」。
(※2)「手偏」に「庶」。

 

底本:「紙魚」昭和3年1月号