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日記

大正五年

二月一日

 久し振りに今日は曇り日だ。風がないから波の音は弱い。窓を開けて相模半島をながめると丁度ベールを通してみるよう。コバルト色は絵にもかけぬ。かういふ曇つた日は心に疑問が多くなる日だ。朝飯前に日蓮をよんだ。自分は強い心持ちになつた。彼の一生は強烈なる自我の実現にある。今の時代に出たらあゝいふ表現法は取らなかつたゞらうと自分は思ふ。
          ○
 今日の思想は最早明日の思想ではない。然し明日の思想を生む楷梯とはなり得る。いつまでも同一の思想を執持することは出来ない。然し最後には一つ所に帰着せなくてはならぬ。要は吾等の体は古往今来一貫せるもので用を説くべき思想はたえず流転せなくてはならぬだらう。
          ○
 一月も暮れて了つた。大正五年は既に其(その)十二分の一を失つた。自分の病気は日に日によくなるやうに自覚せられる。高い熱が出たり酸漿が出たりすると全く今にも死なねばならぬかと案じられる癖に少し良くなると色々な妄想を起して来る。人間は何でもいつも危機に瀕して居るといふ緊張した心を持つて居なければならぬ。自分ももう数へ年で二十七だ(。)(※1)うつかりはして居られない。年の若いといふことは画(ゑ)に書かれた餅に食指を動かして居るやうなものだ。年齢といふものが生命といふものに何等の影響を及ぼし得ぬことは知つて居るものの若いといふことが兎角何人の鼻にもあらはれてゐるやうである。老若を超越せねばならぬと同時に年の若いことを盾にせぬやうにしなければならぬ。

二月二日朝

 今日も曇り日だ。それだけ空気が冷たい。井戸車の音がしきりにする。汲む方も随分難儀だらうが、汲まれる水もさだめしつらいであらう。そして私はその水の行末を考へて色々な想像を描いて見た。面白い運命を経て行くものだ。

二月四日午後記

 今日は節分である。自分は午前犬養兄(けい)の結婚式の祝電を発するために片瀬の街路に出た。農民風の人が陸続と往来して居る。いふまでもない龍口寺で追儺(おにやらひ)の式を行ふのである。石段を上り両側にならぶ出商人の露店の中を過ぎて御堂に上つた。煎豆が盛んに踏みにじられて居る。勿体ないことだと思つた。豆も五穀のうちである。鬼に去つて貰ふ代と思へば豆を失ふのはよいかもしらぬが、鬼が其(その)豆を拾つて食ふかは疑問である。然しそれはどうでもよい。習慣といふものは物質的にしろ精神的にしろ人間に対して意外なる損失を与へて居ることゝ自分は思ふ。
 堂の中は南無妙法蓮華経の声が充ちて居る(。)(※2)額には日蓮大師の姿が写して幾枚となく書かれて寄進されてある。中にも龍口(たつのくち)法難の図は最も壮絶である。自分はつくゞゝ当時を追憶した。自分も強い人になりたい。

四月二日

 久しく日誌を怠つた。去る二月十七日なつかしき父母の膝下に静養して今に五旬の日を経過した。その間の私は極めて平静で且つ心から楽しかつた。田園に対する親しみが過去の何れの日に於けるよりも最も深いやうに思はれた。芳烈の草をメドースに甦らしむる春の光は尚更になつかしいものであつた。土筆を摘み菫を手折つて嫩草(わかば)の香に酔ふとき本当に自然の柔かい腕に抱かるゝ心地がする。緑の芽には生活の力が溢れて居る。喃々(なんゝゝ)の鳥の声には真如の囁きがある。

四月十八日夜記

 四月十六日の午後四時本郷佐藤方を立ちて今にも降りそうになつた天気の中を花見客に取りまかれつゝ森ヶ崎の勇館(いさみくわん)に引越した。茅原華山(かやはらくわざん)氏の紹介によつたのである。鉱泉はラヂウムヱマナチオン三・一マツヘ他に食塩鉄を含むで居る。海までは約一町ばかり。遠浅になつて居る片瀬で見るやうな波の音は聞かれない。つりぼりは此地の名物と見えて鮒を取る人が夥しい。或(あるひ)は釣(つり)に或(あるひ)は網にいかにも長閑なる春をしめして居る。桜に乏しいので何となう鮮かな気分に欠けて居るが田園の緑は旅館の屋根の上に翻る旗に映えて美(うる)はしい東京湾には帆船が宛(あたか)も水晶が岩蔭に発見されたかのやうに並び、煙を吐く船がたえず往復しつゝある。鴎は群をなして飛び交ひ特異の声を発して鳴く。松の緑は寧ろ黒色を帯び海苔取る女汐干狩する客の点々たるもなつかしい思(おもひ)をさせる。

四月二十三日記

 四月十九日出田(でた)君の亜米利加行きを横浜の波止場に送る。午後三時徐々に動き出す佐渡丸の甲板に立つ君の姿を見て胸に無量の感慨が迫つた。永井先生犬養君と此(この)次には誰が行くかなど語りあつた。波濤万里今なほ茫渺(ばうべう)の海を走る君を思ひ浮(うか)べて、君が前途に幸あれかしと祈つた。今まで汽車では多くの人と別れたが汽船で別るゝは其(その)折が初めてゞあつた。遠く異郷の地に君が手腕を揮はむと出かけた志の偉なるを思ひて自分の心も如何ばかりか多く刺戟せられしぞ。人は何でも進取的でなくてはならぬ。自分の心はうららかに輝いたのである。

 先日買つた近代思想十六講を読む。読み終つて其(その)内に説かれてあつた偉人の一生を回想する度に力と愛とを感ぜずには居られない。不断の緊張と努力と常住の争闘と研智とこれが私の生涯を通じての主義である。勝利とか平和とかこれは自分の与り知る範囲ではない(。)(※3)たゞ進めばよい。自己反省と共に自己の向上をはかればよい。あらむ限りの力を尽して奮闘する。男子の快哉何事か之に過ぎむ。

 昨日洪水以後(※4)の為に『放射線中心時代』といふのを書いた。顕微鏡中心時代から放射線中心時代へ。そして最早我等はこの放射線中心時代を追ひ遣らねばならぬことを説いたのである。科学のこの時代わけは今迄誰人(たれびと)も言つて居ないやうに思ふ。

 柴田萬吉君から昨日写真を送つて来た。強烈なる印象を持つた肖像である。自分はそれに就いての感想を書き送つた。『遠く離れた友を思ふ。』愉快之に過ぎるものはない。

 自分の健康は益々増進する。昨今は咳嗽(せき)も咯啖も殆どない。ラヂウムが益々その効を奏したのかも知れない。喧囂(けんがう)なる肉体的歓楽の渦巻の中に居てひとり霊の糧を拾ふ心地よさ。何等の寂寥も悲哀も覚えない。今後の争闘のために準備するといふ心理状態は筆にもいひあらはせぬ程快いものである。吾が生をして有意義ならしめよ。
  時なれや駒いさまぬに花の散る

五月十七日記

 去る五月十一日森ヶ崎を辞して再び思出(おもひで)多き片瀬海岸の人となつた。宿はやはり相陽館とした。五月の海の色は殊更にめざましく江の島をかざる新緑の滴る如き色には酔はざるを得ない。長谷の大仏を訪ひ、由比ヶ浜を逍遙し、或(あるひ)は藤沢の遊行寺(いうぎやうじ)に林文学士を訪ふなど、近ごろの自分は誠に愉快である。

 十四日の日曜に横浜から白井辰之輔氏夫妻が訪ねられ、また田村学兄夫妻がたづねられた。田村学兄夫妻と共に江の島を散歩した。風の強い日であつた。午前に遊行寺(いうぎやうじ)まで行つたので疲れた、夜どうしても眠られずたうとう朝までまんじりともせず暮れてしまつた。自分は悲しかつた。翌日何とかして眠らんと工夫したが出来ずまた夜になつて眠られさうもないのでたうとう臭剥(しうぼつ)を取り寄せて初めて熟睡が出来た。

(※1)(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)原文傍点。

底本:『小酒井不木全集 第八巻』(改造社・昭和4年12月30日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆集成(昭和4年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(随筆の部)」

(公開:2004年12月23日 / 最終更新:2004年12月23日)