一月某日
夕暮替歌
夕暮にながめ見渡す相模沖
月にみがける大島のほとりに見ゆるいさり火は
アレ波に消ゆ、波の音のこなたに江の島があるわいな
一月二十一日
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ひとり窓に凭(よ)りて波の音を聞く。点々散在せる漁舟は霧の如き海面を思ひゝゝにすべりゆく。磯なれ松のさみしげに彳(たゝず)むもあはれに甕にうかべる金魚のひれの運びものどかである。水仙がひとり我ものがほに咲けるも愛らしく、何の香をしたひてか、蠅の飛びまはるのも静である。
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自分の心は近ごろ余程冷静になつて来た。そして外界に対する感覚性も著しく鈍つたやうだ。名利の念を離れるとき人は多少其の本性に立ちかへることが出来るやうに思ふ。
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自分は妻の身の上を思つた。あの清き美はしい心にいかばかり強く自分の影像が刻み込まれてあるだらうかを思ふとき自分は悲しくなつて来る。自分は幸福である。自分はこの身の大患にかゝれる不幸をつぐなふて余りある心の幸福を妻から得た。自分は神に感謝する。
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ヱールリツヒが科学研究には四つのGを要するといつた。 Geduld, Geld, Geschicht, Gluuck がこれである。自分はなほ其れに Genie を加へたいと思ふ。而して Genie を加ふるとき科学研究をなしつつあるものは少なからず悲観せざるを得ない。何となれば Genie は geboren のもので gemacht のものではないからである。恰も poet is borne not made と云ふに同じだ。然し乍ら古来科学の進歩した経路を穿鑿して見るといつも Genie の力を待つてなる。茲に於てか独逸語のGが日本語の『芸』と其音相通じて居るのが余程面白い。科学者と芸術家は其究局(※1)に於ては必ずや一致して居る。未知の世界に切り込むで新らしきあるものをつかみ出して来る点に於ては至極似かよつたものであらねばならぬ。
天才はなる程生れ乍らにして之を養成することかたしとするも吾等はそれを以て直ちに科学研究をあきらめるものではない。我等は我等の努力によりて天才と等しき力を示し得られると思ふ(、)(※2)否それによりて示さねばならぬのである。一世一代に一人か二人の天才を待つて居ては学問の進歩は至極悲観せざるを得ないからである。そこで自分は Genie の Faktor に代用すべく『想像力の養成』てふことを主張する。 Phantasie なるものは但しこれも生来のものであればあるといひ得る。 Association の発達といふのも多少は天性である。然し乍らこれは練習努力によりて発達せしめ得ると思ふ。
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自然科学が我等に齎らす所のものは自然科学の発達によりて物質的に人生を益すると同時に其自然科学にて得たるものを思想界に応用する事である。
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アンリ・フアーブルは『自分は観察する説明しない』と云つた。そして自分の『生命神秘論』のなかにこの主義を標榜して、科学によりて得たる智識によりて自然の美生命の神秘をより多くさとり、そして自然人生を楽しむべきことを説いた。然し乍ら観察する説明しない主義は科学の進歩についてはあまり多くの権威を持たないやうに思ふ。尤もフアーブルの言は『生命』に就てゞある。かれが仏蘭西の南セリニアンの地で昆虫の生活について観察を続けて居たときいかに其生活の驚異を嘆賞したであらう。所謂本能による彼等の生活は恰も一の奇蹟である。到底説明の限(かぎり)でないと彼は絶叫したのである。
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科学研究には二様の方式がありはすまいか。其(その)一は即ち消極的研究法、其(その)二は即ち積極的研究法である。前者は即ち実験を重ねて其(その)目的の有無に拘らず進んで行き其(その)間に法則を見だして行くのと。(※3)後者は即ち予め想像によりて一の終局を定め、然る後其(その)道程を定めるのとである。前者には即ち精細なる観察力を要し後者には即ち偉大なる想像力を要す。この観察力及び想像力は二つ共両者の場合に必要なことは勿論である。テスラの電気学に於ける業蹟やエールリツヒが医学に於ける効(※4)績は何れもこの積極的研究法によつたのである。此(この)積極的研究法こそ五つのGが必要となつて来るのである。而して目覚しき科学の進歩は常にこの積極的手段によりて贏(か)ち得らるるのである。
一月廿五日
一月廿三日夜茅原(かやはら)先生来訪せらる。海月の骨に逢いたる喜(よろこび)あり。談笑時(とき)移るを覚へず興奮の余り睡眠不足せりき。其(その)夜は東南風(ぷう)殊にはげしく、窓打つ怒号すさまじかりき。
一月廿六日
『科学の復活』『科学に於ける英雄主義』を書いた。洪水以後(※5)にのせる為である。
一月廿七日
今日は大寒と思へぬ程暖かい日和である。本当の春日和である。自分は何となく誘ひ出さるゝやうな気持で海岸を散歩した。波打ち際に彳(たゝず)みて波の様子を眺めてゐた。水を楽しむは智者である。智は動的であるからである。自分は智者ではないが、波の変化多きを楽しむものである。パンタライ、パンタライと云ふやうに波が聞えた。
砂丘にのぼつて今朝送つて来た洪水以後(※6)を繙いた。華山氏の面影躍如としてゐる。どうしてもあの人は天才だと思つた。科学研究にもあゝいふ人が欲しいと自分は思つた。これからの科学研究は今迄の法則や美観にあこがれて居る時代ではないからである。
○
室に帰りて床に入り日蓮を読む。あの人は立派な英雄主義だ。日蓮は日本の魂也とは何たる気持のよい言葉であらうか。身延山御書(おふみ)(※7)の妙文は古今独歩だとうなづかるゝ。何度読んでも厭きることがない。種々御振舞御書(おふみ)(※8)をまた読んだ。あれを読んで居る間は自分の病気も平癒してしまつた気持がする。努力だ精進だ強行進軍だ。じつとして居る時機ではない。
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近松もたしかに天才だ。あれ位無駄のない筆をつかつてあれ位気持よく人情の極致を写し得る人はたんとあるまい。『丹波与作』で馬方の三吉が盗みした折の重の井との対面は将来どんな豪(えら)い人が出て来たとてとても真似の出来る訳がない。人間はどうしても豪(えら)いものにならなければならぬ。万人を押しわけて高い位に座せねばならぬ。凡俗どもを瞰下せなくてはならぬ。この世の中は凡そ自分の為に作られてあることをよくゝゝさとらねばならぬ。日月我が為に照り、山海我が為に翠色(すいしよく)を呈す。山や河を謳歌して居るよりも山や海をして我を謳歌せしめよ。
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どういふ点かはわからないが自分は確かに他人よりすぐれたものを持つて居ることを確信して居る。たゞ将来に於いてそれを如何に発現せしむるかゞ自分のこれからの努力にある。バルザツクの、『知られざる傑作』では結局凡俗に堕せねばならぬからである。あゝ努めよう、進まう、まだ自分は若い。
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近頃夢を見ぬ夜はない。つまり床に居る時間が長いからであるのはいふまでもない。そして自分は夢でいつも故郷が背景となつて居ることをさとる。故郷……母……自分には常に離れ得ないで piece of thought である。母が恋しい。
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母が逝いてもう一年余になる。母も定めし地下で自分の生長を気づかつて呉れたであらう。自分の現在は全く母の賜である。自分は何時父と母に対する報恩の意味を具体的に示すことが出来るであらうか。両親よ、願はくば今暫しわが心を諒としたまへ。
一月廿八日
想像は創造である。自分は想像的科学者でありたい。換言すれば科学の予言者でありたい。そしていつも先駆者となつて自分の建てた理論、自分が攫(つか)んだ事実を実験によりて証明せしめたい。 imaginative scientifist でありたい。
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想像力のないものは到底科学者たるの資格はない。想像力のないものは科学研究に携はるよりも科学によりて得たる所のものを実行し模倣して居ればよいのである。
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雀が地上で餌をあさりつゝあるのを見ると、絶えず周囲に眼を配つて居るやうである。
○
窓に寄りて自分は空を眺めて居た。断(き)れゞゝの雲が見る間に空一面に漲り渡つて了つた。自分の思想も雲の如くでありたいと思ふ。 cloudy thought ではなくして thought as cloud でありたいのだ。
一月三十日
朝恩師の端書を受取る。わがこゝろ恩愛のなさけにうるほひぬ。若君骨膜炎とかなりと、よりて左(さ)のこしおれをものしぬ。
若君のいたつきを思ひて
ちご桜宵のあらしは何のそのあくれば晴れてにほふ春風
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ある夜さり夢にたのしく語らいしそのまらうどは我師なりけり
浜千鳥みやこの方にことづてよわがいたつきは怠りにけり
波の音に寝ざめの床を出て見れば海原しろくありあけの月
夕ざれば絵の島靄につゝまれて空に消え行く伊豆の山々
大島の煙はくもにひろごりて朝日てりとふあまのひきふね
秋ならで月ぞ悲しきさり乍らかくればみつる習(ならひ)ありけり
午後
軍艦橋立が長閑に煙を吐いて居る。廿八日より御避寒相成りし聖上陛下の警護の為である。自分はつくゞゝ高貴の御身の上を思つた。国土万歳、聖寿万々歳。
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もう大正五年もはや十二分の一を失つた。失はれてる月日は将来に於て如何なる感想を以て回顧せられるであらうか。恐らくは何等の権威も持たぬであらう。然らば永劫の湮滅である。人は現在の時そのものを意味あらしめねばならぬ。現在より天才とならねばならぬ。
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精神と共に肉体も解放せられなくてはならぬ。
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善種学は不具者の為に存在したのではあるまいか。英雄主義に善種学はない。善種学は科学等の作りだした一の変種である。而もそれは永久に賞玩せらるべきものではなくて、早晩淘汰されねばならぬと思ふ。人間が自然に対して侵して行く領分はもつと他の見当ではあるまいか。
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自分の病気は昨今大(おほい)に怠つたやうである。自分は決してこの病気が自分の生命に少しの打撃をも与へて居ないことを確信して居る。これはほんの一時の幻影に過ぎぬものであると思つて居る。先日妻への手紙に、自分の疾患は月蝕の如きもので、兎に角一時欠損の状態を示すともそれは月の体そのものには以等(なんら)の故障を与ふるのでなく忽ち元の如く冴え渡るものだと書いて送つた。そして月蝕後の冴え方は以前よりもより明るいことは誰しも否むことは出来ぬ。自分が取るべき経路もそんなものであると思つて居る。自分は兎に角自分の一生を通じて病苦と戦はねばならぬことは予期して居る。然し自分の生命はそれによりて何の支障を受くるものでない。否益(ますゝゝ)それによりてより多くの光彩を放つであらう。自分は悲しい。涙も出る。然しその涙は常に歓喜の結晶を溶解して居るので、悲哀の背景には希望の光が冴え渡つて居る。即ち自分の悲哀はみがかれたる悲哀である。
扁舟、漁夫、漁夫の娘、貝殻、波のうねり何もかも悲しみをそゝる。然したのしい、うれしい。
○
犬が吠えて居る。彼等はある目的の為に吠えて居る。そして吠える度毎に皆其(その)音色が違ふのである。或(あるひ)は歓喜、或(あるひ)は悲哀、或(あるひ)は憤怒等の際各其(おのゝゝその)特異の吠え方がある。然し乍ら之を聞く多くの人はいつも同じやうにしか聞かぬ。天才の怒号も或(あるひ)はこんなものではあるまいか。犬の声は犬の仲間が聞きわくるやうに天才の声も天才でなくてはわからぬ。自分は怒号する! 周囲のものを自分と同じ程度まで引き上ぐべきか。または自分と同じものが出現するまで待つか。君よ何れを取らむとするか。
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友からの端書に『病親しむべし』といふようなことをいつて来た。然しこれはどうしても弱者の声としか受取られない。尤も意味の取りやうでどうにでもなるが、よく考へて見ると病は決して親しむべきものではない。病親しむべしといふと病を自分のレベルに引き上げたことになる。
自分は自分の現下の状態を非常に幸福に感じて居る。それは何等の拘束がなく全く自分の肉体は解放せられてあるからである。一面から考へて見れば病の為に拘束せられて居るやうに思ふけれども病の為に自分の得た賜物は病をつぐなつて余(あまり)ある。
病は自分に禁慾(※9)といふことを教へて呉れた。満足するな(※10)といふことをしみゞゝ自分の脳裡に印刻してくれたのである。
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今日は何ともいへぬよい日である。自分の心持ちは水晶のやうに胸がすつとする程快い。花を見ても楽しいやうだ。房総の山々が自分の前途を祝福して居てくれるやうな気持がする。今日は日曜である。自分は妻の今日の動静を色々胸に描いてみた。そして彼女のさみしげに笑ふ顔を想像した。彼女を一生涯幸福にするも不幸にするも皆自分の心持にあるのだと思ふとき自分は襟を正しくする。そして人生に対して真面目に考へたくなる。然し彼女を得て自分は今までもまたこれからも幸福である。
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自分は毎夜夢を見る。そして朝起きた当座は判然と頭にうかぶが、午後になると何が何だか更に覚えがない。人間の多くはかうゆう風に他人の頭に映ずるばかり。自分の存在はほんとは夢だ。ゲーテはヴエルテルの手紙の中に、“Daas das Leben des Menschen ist ein Traum sei, ist manchen schon so vorgehommen, und anch mit mir zieht dieur Gefuehl immer herum.”
といつて居るが、自分の努力を夢に終らせないやうに工夫しなければならぬ。
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聖上の御避寒を思ひて
打かすむ山また海ものどかにて葉山のあたり瑞祥の雲
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真帆片帆波すぢかいにわけて行く果(はて)とも知らぬわが思(おもひ)かな
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その昔御難のあとゝ人はいふ石にわびしき七字題目
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砂丘(すなをか)に春日をあびて仰ぎ見る空にはむなし己(おの)が心かな
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さすらひの身はかなしくも浜づたい拾ふ小貝の全きはなし
一月卅一日
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今日来るか明日は来るかと手紙待つ心ぞ闇の錦なりける
(※1)原文ママ。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文ママ。
(※4)原文ママ。正しくは「功」。
(※5)(※6)原文ママ。洪水以後は雑誌名なので正しくは「『洪水以後』」と表記すべき。
(※7)(※8)原文ママ。書名として『』で囲うべきか。
(※9)原文「禁慾」に「○」。
(※10)原文傍点。
底本:『小酒井不木全集 第八巻』(改造社・昭和4年12月30日発行)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆集成(昭和4年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(随筆の部)」
(公開:2004年11月29日 / 最終更新:2004年12月9日)