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見得ぬ顔

小酒井不木

 一

 庄司弁護士は、今日山岸事件の公判傍聴に行つて、被告の答弁に、常になき深い感動を与へられた。
 山岸事件といふのは、その発生当時、可なりのセンセーシヨンを起した殺人事件である。殺されたのはN市の有名な、然し、あまり評判のよくない山岸といふ富豪。犯人として逮捕され起訴されたのは、川村といふ主義者。さうして、川村は警察でも、予審でも、潔く自白して、いよゝゝ公判に附せられるに至つたのである。
 庄司弁護士は、川村の弁護人に選ばれたのではないが、かねてこの事件には非常な興味を持ち、予審調書を借りて研究した結果、犯人の自白に疑を懐いたのであつて、ことによると公判に際して、被告は自白を翻すかも知れぬと思ひながら、異常の緊張をもつて、傍聴席に列したのである。
 果して、被告は、予審に於ける陳述をきつぱり否定した。予期したことゝいひながら、庄司弁護士の心臓は躍つた。さうして、被告の沈着なる態度と、明快なる言葉とは、強くその神経を顫はせた。だから、今、庄司弁護士は、自宅の書斎に於て、腕を組みながら、夜の更けるをも忘れ、法廷に於ける裁判長と被告の問答を思ひめぐらせたのである。
「……何故私が虚偽の自白をなしたと仰せになるのですか。それは至つて簡単な理由で御座います。即ち、一口にいへば警察の人たちが、私の犯人であることを切望したからであります。犯人であることを切望するといふよりも、犯人であると私が口で言ひさへすればそれで満足してもらへたのです。あの人たちは、事件の真犯人が誰であるかを問はうとせず、一つの殺人事件に対して、早速一人の犯人が入用なのです。殺人が行はれた以上、犯人がある筈ですから、早くその犯人といふよりも寧ろ、犯人の位置を占むべき者をほしいと思ふらしいのです。それかといつて、何の関係もない人を持つて来ることは出来ませんから、多少の関係さへあれば、その人に自白を求めるのであります。ちようど、抜けた歯を補ふやうに、銀歯であらうが金歯であらうが、或は又セメントであらうが、とに角、歯の格好をしたものを持つて来てはめさへすれば、それで事は足るものと考へて居るらしいのであります。あの人たちは、私に向つて、白状せよ、白状せよ、早く白状すれば、こつちも面倒はなく、お前も気が楽になるではないかと、寄つてかゝつて自白をすゝめました。事の真実をつきとめようとはせず、たゞ職務をまがりなりにも全うしようとする態度が見えて、そのうるさいことは、耳のはたで、楽器をかき鳴らされると同じでした。そのやうな時、どんな微妙な音楽でも、たゞもう、早く楽器から遠かりたいと思ふだけです。で、私は、いさぎよく、あの人たちの勧めに従ひました。それは、煩を避けるといふより外、何の意味もありません。自分が白状しさへすれば、あの人たちの仕事は終り、あの人たちは安心するのだ。かう考へて私は身に覚えのない罪を引受けました。たゞ、私はその時、正義といふものが、人生の煩に対して、案外力の弱いものであることに気づきました。これは私が、今後私の主義を奉ずるについてのよい参考となりました。」
「被告は予審に於ても、犯人であることを認めて居るのではないか。」
「予審も警察の延長に過ぎぬものと考へたからであります。さうしてその考は当つて居りました。そこでやはり徒らに煩を招くよりも、煩を避くるに如くはないと思ひました。」
「すると被告は、はじめから、司直の人々を欺かうとする意志があつたのか。」
「欺かうとする意志があつたのでは決してありません。欺くにも欺かぬにも、てんで理性をもつて応対することの無駄であることを知つたのであります。もとより私は正しいことを欲します。正しいことを欲すればこそ、今日、こゝで、予審に於ける陳述を否定しました。さうして、抑のはじめにも、私は私の行動について忠実に述べました。如何にも私は、犯人であると疑はれるやうな不利な地位に立つて居ります。けれども私が犯人でないことは、私自身よく知つて居ります。ですから、それをありの侭にのべましたけれども、てんで相手になつてくれません。私が労働者であることゝ主義者であることゝは、どうやら、私を殺人者と認めるに足る資格であるらしいのです。真実を語つて真実を認められなかつた場合私たちはどうしたらよろしいでせうか。いふまでもなく虚偽を申し立てるより外はありません。それは私たちの意志ではなく、たゞ事の成行きがさうならしめたに過ぎません。
 なほ又、私には何の係累もありません。この事が、私をして、比較的楽に虚偽の自白をなさしめました。若し、私に妻子その他の係累がありましたならばうつかり虚偽の自白も出来なかつたゞらうと思ひます。たとへ一時的であつても、妻子の肩身をせまくすることは忍び得ないことだと思ひます。けれども今の私は、それほど、用心深く身をまもる必要はありません。私はこれまで、正しいことを言つて、正しいことを行つて居たに拘はらず危険な人物として世の人々に敬遠されました。それ故世の人々にとつては、いはゞ私は不用な人間であります。ですから、私は犯さぬ罪のために死刑に処せられてもかまはないといふやうな気にもなりました。
 けれども、一方から考へて見れば、このまゝ私が死刑を受けたならば、そこに容易ならぬ事情が発生して来ます。それは何であるかと申しますに、若し私が絞首台に送られたならば、真犯人は恐らく、ぢつとして居ることが出来ずに自首するであらうと思ひます。他人が自分の罪を引受けて死んで行くのを黙視するのは、到底堪へられぬことゝ思ひます。さうなると、当然、責任は司直の人々にかゝつて来ます。甚だ横着なことを申すやうですが、裁判に携はる人のためにも、私は断然自白を翻すべきであると思ひました。」
「然らば訊ねるが、被告はかねて、被害者山岸を殺さうとする意志を持つて居たか。」
「殺す意志を持つたかどうかといふ御訊ねに対して、持つて居ましたとも居ませんとも御答へすることは出来ません。たゞ私が殺された人に対して、平素どういふ感じを抱いて居たかといふことだけは御話し出来ると思ひます。卒直にいひますれば、あゝいふ人はこの世に居てもらひたくないと思ひました。あの人は自分の金力をいはゞ悪用しました。さういふ人は一刻も早く私の視界から消えてほしいと思ひました。然し、私が私の視界から消えてほしいと思つたのは、強ちあの人ばかりではありません。富豪の中には勿論、政治家の中にも、学者の中にも、その他あらゆる種類の人々の中にも、支那人のいはゆる、倶に天を戴きたくない人が沢山あります。私慾のために政権を利用し、多数をたのんで無理をとほさうとする政治家はその一例であります。学問を売り物にし、未熟な研究を発表して世を迷はせ私利を貪らうとする学者もその一例であります。私はさういふ人間に逢ふたびに、殺したいと思ひました。それは決して私一人に特有な病的心理ではないと思ひます。誰でも、恐らく、私憤を感じた人に対しては勿論、公憤を感じた人に対してでも、かうした心理を抱くであらうと思ひます。たとへその心理に大小深浅の区別はあるにしても、抱くといふ事実には除外例はないものと信じて居ります。
 私が殺された人に対していだいたのも、この種の感じに過ぎません。あの人の強慾と、乱行とに苦しめられた可憐な人人のことを思つて私が憤りを感じたことはこれ迄度々ありました。さうして、その可憐な人々のために、あの人に接しようと企てたことが二三度ありました。けれども私は、自ら手を下してあの人を殺さうと思つたことはありません。むしろ、出来ることなら、あの人の覚醒をうながし、金力の善用に心がけるやうになつてほしいと思ひました。
 実際、あの人に対して、一種の憤りを感じた人は、ほかにも随分沢山あると思ひます。さうしてその憤りが、ある人に於ては、私の幾十倍、幾百倍の大さであつたといふことは、あの人が殺されたことでもわかります。
 いづれにしても、私があの人に対して持つた感じは、以上申し上げましたやうなものであります。若しさうした感じを殺意と御認めになるならば、それは御自由でありまして私は敢てそれに反対致しません。さうして、それによつて、若し殺人未遂といふ罪が成り立つものでありましたならば、私は甘んじてその罪に服するつもりで御座います……」
 こゝまで記憶を辿つて来たとき、庄司弁護士は思はず軽く苦笑した。といふのは、自分自身もまた、富豪山岸に対して被告川村と同じやうな感じを持つて居たからである。これまで、一再ならず山岸の行動に対して憤慨し、あゝいふ人間はこの世に居ない方がいゝと思つたことがあるからである。恐らく、裁判官も検事も、また傍聴席に居た人々も、山岸を知つて居るほどの人は、多少は、同じ心を抱いたにちがひない。
 まつたく、被告川村の言葉には同感であつた。この点ばかりでなく、彼が警察に於て虚偽の自白を行ふに至つた心理にも同意を表せざるを得なかつた。彼が真犯人であるか否かはもとより断言することはできない。けれども、警察の人々が自分たちの捕へた容疑者に向つて自白を促がさうとする心を持つて居ることは、争はれない事実である。それは或は一種のサヂズムであるかも知れない。或は単なる職業心理であるかも知れない。彼等が人間である以上、また已むを得ないことゝ言ふべきであらう。だから、これまで、多くの容疑者は警察及び予審で一旦自白をなし、公判廷に於て、それを翻した。勿論その中には、真犯人でありながら、死刑を虞れ或は死期を一刻も先に追ひやらんが為に、故意に自白を否定するものも稀ではなかつた。従つて、如何に被告が巧みに弁解しても、それをそのまゝ信ずることは危険であるといつて、公判廷に於ける自白の否定を、つねに被告の卑怯な心に帰するのは尚更危険でなくてはならぬ。すべては、証言と証拠とを冷静に判断して、事を決するのが裁判官の役目である。
 けれども、証拠といひ証言といひ、それは必ずしも絶対的のものではない。『すべての殺人事件は状況証拠によつて断ぜられる』と喝破した英国の某判事の言葉は、決して誇張ではあり得ない。直接証拠といひ状況証拠といふも、その間に本質的の差異がある訳ではなく、すべては裁く者の心によつて左右されるといつても過言ではないからである。
 庄司弁護士は考へ続けた。……自分のこれまでの経験によると、公判廷に於ける検事にも裁判官にも、警察の人々と同じやうな心持ちが見られないではなかつた。先入見は絶対に廃すべきものであるけれど、人間である以上、先入見の影響を免れることは至難であらねばならぬ。又、証人の証言が、裁判官の訊問の言葉によつて左右されることは、争はれない事実である。換言すれば、裁判官は自分の心持ちにとつて都合のよい証言を証人から取ることが出来るのである。たとへそれを意識的に行はないとするも、結果から見れば、意識的に行つたと同じである。山岸事件の被告川村に対して、裁判官がどういふ感情をいだいて居るかわからぬが、たとへ単なる状況証拠であるとはいへ、可なりに沢山集つて居るし、而も予審で被告は自白して居るから、被告にとつて都合のよくない先入見が、裁判官によつて抱かれて居るのは察するに難くなかつた。尤も、今日の被告の答弁は堂々たるものであつて、それが、裁判官の先入見に対して、多少の破壊作用を及ぼしたであらうとは思はれるけれど、一方に於て、堂々たる答弁であればあるだけ、一種の反感を買ふ虞がないでもなかつた。
 けれども、自分は予審調書を研究した結果、川村を犯人であると認めるには躊躇せざるを得なかつた。これは一方から言へば、一種の弁護人気質であるかも知れない。さうして検事の側から見れば、呪ふべき先入見であるかも知れない。然し、動かすべからざる証拠の出ない限り、たとへ川村が真犯人であるとしても、弁護の為方によつて無罪とすることが出来る筈である。
 かう考へたとき、庄司弁護士は、自分が被告の弁護人になりたいといふ衝動を感ぜずには居られなかつた。数々の状況証拠例へば被告が数回山岸家をたづねて面会を謝絶されたこと、殺害の行はれた当夜、現場(郊外の山岸の妾宅)の附近に居たこと、逮捕されたとき、被告が短刀を携へて居たこと、その短刀の形状が、被害者の受けた創傷の形状と一致すること、等、等は、厳密に言へば、決して取るに足らぬ証拠であるが、之が犯人の自白と併せて考へるときは、頗る被告にとつて不利益な証拠となつて来る。それ故、被告を救はうと思ふならば、たゞ普通の弁論をするだけでは物足りない。何か奇抜な方法を考案しない限り、うつかり弁護人になることは出来ない。といつて、差し当り、然るべき奇抜な方法は胸に浮はなかつた。
「さうだ。先づ、公判の成行きをぢつと眺めよう。その結果被告が窮境に陥つたならば、何とか考へて見よう。」
 庄司弁護士は、かう呟いて、寝に就く支度をした。

 二

 公判が進行するに連れ、だんゝゝ被告に不利益な雰囲気が醸されて来た。多少予期せぬでもなかつたが、庄司弁護士は一方ならぬもどかしさを覚えた。弁護人たちの弁論は普通であつたが、たとへ自分が弁護人となつても、あれ以上の弁論は出来さうに思へなかつた。このまゝに捨てゝ置いたならばことによると、被告は有罪の判決を受けるかも知れない。それかといつて、この際、その雰囲気を転回すべき名案はなかつた。
 さうした焦燥の続いたある夜、庄司弁護士は一人の婦人来訪者に接した。彼女は名刺も出さねば、その名も告げず、席を与へられるなり、いきなり語り出した。
「先生、突然で御座いますが、私は先生に御願ひがあつてまゐりました。」
 かう言つて彼女は、弁護士の顔をじろりと眺めた。年齢はまだ三十になつて居ないであらう、その美しい容貌に、侵すべからざる威厳が備はつて居た。
「あなたはどなたです?」弁護士は薄気味悪く感じてたづねた。
「どうか、名を御きゝ下さいますな。又、私が何者であるかも御たづね下さいますな。私は、山岸事件について、先生に御願ひしたいことが御座います。」
 山岸事件ときいて、弁護士は急に乗気になつた。
「どんなことですか。」
「先生の御弁論についてはかねてその高い評判を伝へ聞いて居りますが、それだから私が参つたのでは御座いません。先生はこの頃中、山岸事件の公判に、一回も欠かさず傍聴に御いでになり、特にこの事件に興味を持つてゐらつしやるやうに見受けましたから、かうして御伺ひした訳で御座います。」
 女の言葉ははきゝゝして居た。
「御願ひといふのはどんなことですか。」
「先生はもう、被告川村が、真犯人でないことを見抜いて御いでになると思ひます。けれども、裁判はどうやら被告にとつて不利益な傾向を帯びて来ました。ですから、この際、先生の御力を借りて、被告川村を救つてやりたいと思ひます。」
 女の言葉は凛として響いた。
「救ふべき適当の方法があれば、無論救つてやりたいと思ひますが、今のところ、僕にはその適当な方法が見つかりません。それともあなたには然るべき方法が御ありですか。」
「あります。」
「それはどう言ふ方法ですか?」
 女はすぐには答へなかつた。暫く弁護士の顔をぢつと眺めて居たかと思ふと、幾分か声をひくゝし、あたりを憚るやうにして言つた。
「わたしは、山岸を殺した真犯人を知つて居ります。」
 庄司弁護士は、この言葉をきいて、思はず相手の顔をながめた。けれども、女の鋭い視線のために、眼を傍へ転ずることを余儀なくされた。この女は何ものであらう。若しや、この女が、山岸を殺した真犯人ではあるまいか。かう思ふと、何となく、ぞつとするやうな感じが、背筋を走つた。
「先生はわたしを当の犯人と思召すかも知れませんが、決してさうではありません。犯人は他にあります。ですから、被告川村を、あゝした悲境に置くにしのびないので御座います。」
「若し、真犯人を御承知ならば、直接それを警察へ訴へになつたらよろしいでせう。」
「いえ、それは私にとつて出来ない相談で御座います。私は被告川村が犯さぬ罪のために苦しんで居ることを同情しますが、それだからと言つて、真犯人を私の訴へによつて罪に落すにしのびません。人を殺したものは当然罰を受くべきではありますけれど、問題は別であらうと思ひます。若し私が真犯人を知つて居るといつて警察へ訴へ出ましたならば、警察の人たちは、私がその名を言ふ迄追及してやまぬであらうと思ひます。私は女のことで御座いますから、ついその名を口走つてしまふかも知れません。さうなると、一人の人を助けても、他の人を絞首台に送らねばなりません。それは恐ろしいことで御座います。ですから、私は先生に御願ひにまゐつたので御座います。」
 女の言葉には道理があつた。女の心持ちには十分同情することが出来た。
「それでは、僕にだけは、その真犯人の名を知らせて頂けますか。」
 女はこの言葉をきいて、更に強く庄司弁護士の顔を見つめた。さうしてきつぱり言つた。
「先生にも、それだけは申し上げないつもりで御座います。たゞ先生に、私が真犯人を知つて居るといふことを信じて頂きたいのです。真犯人は、若し、被告川村が有罪の判決を受けるならば、必ず自首する筈で御座います。」かう言つて益々その眼を輝かし、相手を見つめて続けた。「誰だつてきつと自首するにちがひありません。その心は先生にもよく御わかりのことゝ思ひます。川村も申しましたやうに罪を犯したものは、たとへはじめに自首を躊躇しましても、自分以外のものが、自分の罪のために死刑の宣告を受けたならば、何の躊躇もなく自首する気になるだらうと思ひます。若しさうなつたならば、恐ろしい裁判の誤謬が世間に公にされます。ですから先生、裁判の神聖を保つといふ上からも、先生に骨折つて頂きたいと思ひます。」
 弁護士は何となく一種の圧迫を感じた。女が真実を語つて居ることは、その態度から見て疑ふことが出来なかつた。女が真犯人を知つて居ることは事実であらう。又、女が真犯人の名を自分に告げないのにも、何か恐るべき理由があるのだらう。弁護士はだんゝゝ女の気持ちに引き込まれて行くやうに思つて、
「然し、それで、僕に一たいどうせよと仰しやるのですか。」
「それは、私よりも先生の方に、よりよい工夫があると思ひますが、とに角、私の意見を申し上げます。仮に先生がその真犯人から、真犯人であることを決して口外してくれるなと依頼を受けられたとしたならば、先生はたとへ法廷に於てもそれを口外なさらぬ筈で御座いませう?」
「それは致しません。刑事訴訟法第百八十七条は、黙秘義務を認めて居ります。……医師、歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁護人、弁理士、公証人、宗教若ハ祷祀ノ職ニ在ル者又ハ此等ノ職ニ在リタル者ハ業務上委託ヲ受ケタル為知得タル事実ニシテ他人ノ秘密ニ関スルモノニ付証言ヲ拒ムコトヲ得云々とあります。」
「それで御座います。その条文を利用して頂きたいので御座います。私の申し上げるのを真犯人から直接きいたことにして下さつて、真犯人を知つて居るといふことを楯に、被告川村の弁護人として立つて頂きたいので御座います。」
 庄司弁護士は女の意見にすつかり感心した。それにしてもこの女は何ものであらう。かうした名案を考へる女はそもそも如何なる経歴を持つて居るのであらう。かう思つて、弁護士は今更ながら、女の容貌風采について、精密な観察を下すのであつた。けれども、その服装にも態度にも、これゝゝの女であると、推定すべき手がゝりを見つけることは出来なかつた。
 女は早くも弁護士の心を察した。
「先生は多分、私が何者であるかを知りたいと思つて御いでになるでせう。けれども、それだけは、はじめに申し上げました通り、たづねないで下さいませ。尤も、事件が片つきました節には、ある程度まで御話し致すことに約束します。ただ申し上げて置きたいのは、私が被告川村と何の特種の関係もないことで御座います。たゞ真犯人を知つて居りますために、あの人を見殺しにするに忍びないので御座います。裁判はだんゝゝ被告の旗色を悪くして行きます。たとへ真犯人であつても確実な証拠がなければ有罪の判決は与へられぬと聞いて居りますのに、この事件では却つて無辜の人が罪に問はれやうとして居ります。こんな間違つた話はありません。裁判官は、どうやら被告の自白にとらはれて居るやうで御座いますが、それは被告の言葉通り、警察の人たちに勧められた結果の自白でありまして、被告の言葉の正しいことは、真犯人とこの私とがよく知つて居ります。虚偽に自白を行つたことは、たしかに被告の取り返しのつかぬ過失ですけれど、死をもつてその過失を償はねばならぬといふことはあまりにも残酷な運命であると思ひます。一面から考へますれば、犯さぬ罪であればこそ、虚偽の自白も出来易いのではありますまいか。若し真犯人であつたならば、たとへ警察の人たちが、如何に勧めようとも、知らぬ存ぜぬで突張り、出来るだけ罪を逃れようとするにちがひありません。よしや拷問にかけられても、絞首台に上る苦しみに較べたら、遙かに堪へ易い訳ですから、決して自白はすまいと思ひます。さうした心理について裁判官は一かう考へをめぐらせてくれぬやうです。真犯人を知つて居る私から見れば、それが如何にも歯痒く歎かはしいのです。若し後日、恐ろしい誤判が公にされたならば、それこそ、昔の武士の切腹ものであるに拘はらず、平然として、被告を不利の立場に導かうとするのは、憐れにもまた怖ろしいことで御座います。どうか先生被告のために奮起して下さいませ。さうして一日も早く被告を救つてやつて下さいませ。」
 女の言葉は段々熱して来た。その鋭い言葉の鉾は、庄司弁護士の急所を突いた。
 庄司弁護士は客を前にしながら、眼を閉ぢて静かに考へた。考へると同時に、多大の興味を感じて来た。それは法律を取り扱ふものが時々遭遇する一種の興味であつた。いはゞ法律あるがために、その法律を楯にして行ひ得る冒険の興味である。若しその冒険を心の正しくないものが行つたならば一つの犯罪となるのであつて、それは法律を逆用する、にくむべき行為であるが、正しいものがその冒険を行へば、いはゞ一個の問題を提供して法律の進化を促がすことができる。法律は人間の定めたものであるだけ幾多の弱点が存するのであつて、その弱点に乗じて、例へば人間一人を救ふならば、法律に対しては冒涜であるかも知れぬが、人道上は歓迎すべきことであらねばならぬ。
 今この事件に於て、仮に被告川村が真犯人であるとしても、予審調書及び公判廷に於ける証言にあらはれた証拠は、すべて被告に対する状況証拠に過ぎないのであるから、若し、自分が真犯人を知つて居ると宣言して弁護に取りかゝつたならば、裁判長は如何なる態度に出るであらうか。恐らく如何なる裁判長も、その薄気味悪い宣言を顧慮せずに、自分の先入見の支配通りに事を断ずることは不可能であらう。たとへ真犯人を知つて居なくても、知つて居ると宣言した日にはやはり同じ結果を齎らし得る訳ではないか。
 然るに今、目の前に真犯人を知つて居る人が居る。或はこの人自身が真犯人であるかも知れぬ。たとへ真犯人の名を告げないとはいへ、まんざら、嘘を話して居るとは思はれぬ。よし又、仮にこの女が被告と特種の関係にあつて、被告を遮二無二救はねばならぬために、これだけのことを捏造したとしても、このやうな名案を考へ得るのは、よほどの天才であつて、その創作的才能だけに対しても敬意を払つて然るべきである。全くこの方法によつて、自分が被告の弁護に立つといふことは法律に向つての一つの試練であつて、それだけ、研究の価値があり、同時に一人の可憐な犠牲者を救ふ見込が十分ある。現在の法律は法律が他人に及ぼした迷惑を弁償する道を講じて居らぬ。一日早く自分が弁護に立てば、一日早く被告の迷惑を減ずることが出来、法律そのものの罪を軽くし得る訳である。
 仮に、この女の言ふことが悉く嘘であつて、この女のために欺かれたとしても、これだけの問題を与へてくれたことは喜ぶべきことである。若しこの女の言葉を無条件に信じて、法律に対する冒涜を行ふやうな結果になるとしても、自分がそれに対して全責任を持てばよいではないか。
 かう考へて、弁護士が急にその顔にあかるい表情を浮べながら眼をあくと、女は早くもそれと悟つて言つた。
「先生、ありがたう御座います。先生はきつと、被告川村のために弁護に立つて下さる決心をなさつたにちがひありません。」
「いかにもその通りです。」と、庄司弁護士はきつぱり言つた。「無条件であなたの言葉を信じ、あなたの意志に従ひませう。」

 三

 庄司弁護士は、被告川村の承諾を得て、私選弁護人として法廷に立つことになつた。
 さうして、いよゝゝ今日判決が下されるといふ朝、裁判長宛に次の意味の申立書を提出した。
 ……本弁護人が被告川村の弁護を引受けたについては、立派な理由がある。それは必ず、被告を無罪ならしめ得ると信ずるからである。それといふのは、自分は山岸を殺害した真犯人を知つて居るのである。彼は、若し被告川村が有罪の判決を受けるやうなことがあらば即日自首して出ると言つて居る。だからどうか、慎重なる審理を願ひたい。……
 この申立書を提出するや否や、庄司弁護士は直ちに裁判長の控室に招かれた。裁判長の顔は緊張して居た。
「君この申立書は本当か。」と裁判長は興奮の色を浮べてたづねた。
「本当とも、虚偽にこれだけのことが言へるものか。」
「君は真犯人を知つて居るのだね?」
「知つて居る。」
「では、その名をきかせてくれたまへ。」
「それはいけない。」
「何故?」
「弁護士には黙秘義務がある。」
 裁判長は、あきれたやうな顔をして相手を見つめた。
「君、殺人事件の犯人だよ。重罪人だよ。それを君は故意に隠蔽しようとするのか。」
「隠蔽ではないよ。僕は弁護士としての義務を思ふだけだ。僕がそれを言はなくても、捜索すれば必ずわかることでないか。」
「必ずわかるとは限らない。君がその名を知らせてくれさへすれば捜索は極めて容易となる。重罪犯人が逮捕されずに青天白日の下をうろついて居るといふことは、世の平和をみだすぢやないか。」
「それなら、真犯人でないものを起訴して、幾日もその自由を束縛するのは、世の平和をみださぬといふのか。」
「君、皮肉を言つては困る。」と、裁判長は苦笑した。「お互に正義の為に努力しつゝあるではないか。」
「だから、一日も早く、被告川村に無罪を宣告したまへ。」
 裁判長の顔には明かに当惑の色が浮んだ。
「君、検事局へもこのことを申し出たか。」
「いや、申出ない。別に申出る必要はないと思ふ。」
「それはさうだ。けれど、やはり立合の検事に知らせて置きたいと思ふから、一寸一筆書いてくれないか。」
 庄司弁護士はすなほに裁判長の言葉に従つて申立書の写しを書いた。裁判長はそれを給仕に持たせて検事局へ使はした。
「君、公判廷でも、真犯人の名を口外しないつもりか。」と、裁判長は語気を強めてたづねた。
「無論よ。」
「君、僕の地位になつて考へてくれ。仮に君が裁判長だつたら、真犯人の名をきゝたく思ふだらう。」
「そら、さう思ふだらう。けれども、君が反対に弁護人となつたら、やはり黙秘するだらう。裁判の方では、別に真犯人を捜索する道がある。けれども、僕が真犯人の名を口走つたが最後、もはや取り返しがつかぬぢやないか。」
「困つたなあ。」と、裁判長は考へた。「愚図々々して居るうちに、犯人は逃亡するぢやないか。」
「逃亡するかせぬかは僕の知つたことではない。」
「君、よく考へてくれ。」と、裁判長は言葉を和らげて言つた。「法律上のことは兎に角として、一般人民が、君が犯人を知つて居りながら、その名を言はぬと聞いたらどう思ふだらう? 常識で考へてもそれはいけないことでないか。人を殺したものが、君に知られて居りながら逮捕されないで居るとわかつたならば、恐らく世間の人たちは、世はくらやみだと思ふだらう。法律さへ巧みにくゞり抜ければ、人を殺しても罰せられないものだといふ考を抱かせるのは恐ろしいことだよ。人を殺したものを知つて居るなら、いち早くそれをその筋へ告げるのが普通の人情ではないか。」
 裁判長の言葉にも一理はあつた。けれども庄司弁護士の心は少しもゆるがなかつた。
「人情からいへば、尚更口外することは出来ぬよ。言ひ古された言葉だが、窮鳥懐に入れば猟夫も之を殺さない。その罪はにくむべきであつてもその人はにくめない。真犯人に向つて自白をすゝめることは出来るが、真犯人の名を僕が司直の人に告げるといふやうなことは、人情として出来ないよ。殺人者がどうのかうのといふけれど、人を殺すにはよほどの深い理由がなくてはならぬ。発狂者は別として、多くの殺人者は、いはゞ思ひあまつて、さうした野蛮な行為に出るのだ。普通の殺人事件では、殺される方にも殺されるだけの理由があると思ふ。僕はあながち殺人者に同情するわけではないが、殺人者を頭から憎むばかりが芸ではないと思ふ。」
「君、それでは、その真犯人の殺害の動機をきいたのか。」
「いゝや、きかぬ。それをきいたら、逃したくなるかも知れぬ。」
 裁判長は弁護士の固い決心に、一私人としては尊敬を払はざるを得なかつた。けれども裁判官としては、何とかして真犯人の名をきゝ出さねばならない。といつて、きゝ出す術は更になかつた。
 その時、ドアを慌しくノツクする音がして、裁判長の「おはいり」の声に、つかゝゝと歩きこんで来たのは検事であつた。
「庄司君、こりや君、本気か?」と、検事はせはしい息づかひをしてたづねた。
「本気とも。」
「真犯人の名をきかせてくれ。」
「いや、それは言へぬ。」
「え?」
 この時裁判長が言つた。「先刻から僕がしきりにたづねて居るけれど、庄司君は黙秘義務を楯に取つて言はないと言ふのだよ。」
「困つたなあ。」と検事は考へた。「君、まさか一種の手段としてこんなことを申立てたのではあるまいな?」
「無論だよ。一方には被告を救ひ、一方には君たちに恐ろしい誤りをさせたくないと思つたのさ。然し僕が真犯人を知らないに拘はらず、被告を救ふ単なる手段として、これを申立たと考へてくれたつて決してかまはないのだ。たゞ君たちが冷静に事件を運んでくれさへすれば僕は満足なのだ。果して君たちが冷静に事を行つて居るのだつたら、僕の申立書などは毫も気にしなくてよい筈だ。」
「若し虚偽の申立だつたら、一種の脅迫手段だ。」
「そりやさうさ。然し、脅迫によつて、審理が影響されるやうでは、審理は何の権威もない訳だ。」
 検事と裁判長とは顔を見合せた。庄司弁護士は勝利の色を強ひて覆ひかくしながら、裁判長の控室を出た。
 公判廷に於て、庄司弁護人の申立書が正式に読みあげられたとき、傍聴席の人々は色めいた。裁判長は、正式に、庄司弁護人に向つて、その真犯人の名を告げるやうに要求した。けれども、庄司弁護士は、黙秘義務を楯に取つて、裁判長の言に従はなかつた。さうして、
「若し、真犯人の名を告げないことによつて罰せられるものならば、甘んじてその罰を受けます。」と附言した。
 それから裁判長は証人の訊問にうつつた。すると、庄司弁護士の驚いたことに、裁判長の問ひ方にも又証人の答弁にも、これまでとは異なつた様子がありゝゝと認められた。今まで断言して居たことをも言葉を濁し、はつきりして居た筈の記憶が、実は頗る怪しいものであることがわかつた。
 裁判長は、それから更に二度繰返して、庄司弁護士に、真犯人の名を告げるやう迫つたが、弁護士は依然として口を減した。然し、裁判長はそれを如何ともすることが出来なかつた。
 その日判決の下される筈であつたのが、なほ二回続けられることになつた。勝利は誰の目にもたしかに庄司弁護士にあつた。
 果して、被告川村は証拠不十分の理由で無罪の判決を下されたのである。

 四

 その夜、庄司弁護士は人待ち顔に書斎で暮した。弁護士は今日判決が下つてから、直ちに被告川村に逢つて、その前途を祝福し、それからある晩餐会に列席して、先刻帰宅したのであるが、多分、先日の女がたづねて来るであらうと思つて何となく心が落ちつかなかつた。
 弁護士は腕を組みながら、事件の始末を回想した。すると予期したとほりの結果になつたとはいふものの、何となく気味が悪くなつて来た。いはゞ一種の不安に似た感情がむらがり起つた。それは勝利を得た人に常に起る不安であるが、考へて見ると、自分の成功は怖ろしいものであつた。今迄は被告川村を救ふために、他を顧る暇がなかつたが、いよゝゝ川村を救ひ出して見ると、さて、山岸事件の真犯人は誰であるかといふ疑問と、真犯人が今なほ逮捕されずに居るといふ不安が、渦を巻いて起つて来た。
 考へて見れば、自分の行動は随分冒険的なものであつた。謎の女の熱誠に動かされ、女の言葉を無条件で信じたのは、大胆過ぎる程大胆であつた。
「若し川村が真犯人だつたなら?」
 そんなことは無い筈だ。と否定はして見るものの、冷静に考へると、否定するだけの十分な根拠は一つもなかつた。かう考へて来ると、自分は、とんでもない大きな過失を行つたやうにも思はれた。
 それにしても人間の裁判は、何と不思議なものであらう。自分が被告に同情したのも、被害者の山岸に対して平素あまり好感を持たなかつたからである。たゞそれだけの理由で、謎の女の言葉を信じ、遂に目的を達したのであつて、正義を愛する心などは、人間の好悪感の前には何の権威も持たぬことが今更ながら痛感された。謎の女に対する興味と、法律の弱点を試さうとする興味とが、遂に公判廷の雰囲気を転換せしめたといふことは、人間の裁判に対する一の皮肉であらねばならぬ。
「人間の裁判は鵺のやうなものだ。然しあの女も鵺だ。彼女はもう二度と来ないであらうか。永久に謎を打ちつけたまゝ消えてしまつたのであらうか。」
 この時突然来訪者を告げられたので、さては女がたづねて来たのかと思つて胸を轟かして居ると、はいつて来たのは一人の男であつた。
 彼は何となくおづゝゝした様子をして挨拶したが、その顔を正視するに及んで、庄司弁護士は少なからず驚いた。
 といふのは、男の顔が、自分の顔に酷似して居たからである。
「俺には兄弟はない。それとも俺の知らぬ兄弟があるのかしら。いやゝゝ、そんな筈はない。恐らく他人のそら似であらう。」
 男はきよろゝゝゝ、あたりを見まはすだけで急に物を言はうとしなかつた。
「どうなさつたのです。何の御用ですか。」と、庄司弁護士はいらゝゝしてたづねた。
 ところが、男の返答を得ぬ先に、弁護士は第二の来客を告げられた。すると、それをきいた男が少なからず狼狽した様子を示したので、弁護士は、その男を隣室に入らしめて、暫く待つて居るように告げた。
 第二の客は外ならぬ謎の女であつた。彼女の顔には、たしかに嬉しさがあらはれて居た。
「先生、どうもありがたう御座いました。御蔭さまで目的を達して、私はすつかり安心しました。」
「これもあなたを信じたからです。さあ、それでは、御約束どほり、ある程度まで事情を御話し下さいますか。」
「よろしう御座います。」と、女はこの前の時とは打つて変つた気軽な態度で言つた。「然し、真犯人の名は申し上げません。たゞ、私について、少しばかり御話し申します。私はこの前に申しましたとほり、川村とは何の関係もありません。実は被害者の山岸に恨みを持つたもので御座います。何のために恨をいだいたかは申し上げませんが、その恨のために私は山岸を殺さうと致しました。偶然にも兇行のあつた夜、私が短刀をかくし持つて、山岸の妾宅にしのびこみますと、驚いたことに、私より先に一人の刺客がしのんで居りまして、山岸を殺しました。その時私はその男の顔を見たので御座います。」
 かう言つて女は意味ありげに弁護士の顔を見つめた。然し弁護士はその意味を察することが出来なかつた。
「その犯人があなたのご存知の人なのですか。」
 女は返答に迷つて居るやうな様子をした。
「実は、その時は知らなかつたのでございますけれど、ふと公判廷の傍聴席で見つけて、それが誰であるかを知つたので御座います。」
「殺害の現場で見たゞけで、よくその顔を覚えて居られたものですねえ。」
「それは薄暗かつたけれど、電燈がついて居りましたし、犯人は別に覆面して居ませぬのでしたから、はつきりわかりました。でも……」
 といつて暫らく口を噤み、やがて決心したもののやうに言つた。
「先生でしたら、犯人の顔は御見えにならなかつたゞらうと思ひます。」
「え?」と思はず、弁護士は緊張した。「あなたにその顔が見えて僕に見えないとは?」
「それは、それは、先生自身には、見たくても見えませんもの!」
 かう言つたかと思ふと、女は急に立ち上つて、弁護士に一瞥を与へながら、風のやうに消え去つた。

     ×     ×     ×     ×

「はゝゝゝゝ。」
 女が去つてから、庄司弁護士は突然大声で笑ひ出した。
「なあんだ。あの女は俺を真犯人だと思つて居たのか。とんでもない誤りだ。俺が熱心に傍聴して居たし、彼女の言葉を無条件に信じて川村を弁護したので、今もつて俺を真犯人だと思つて居るのだ。それにしても彼女は俺を誰と間違へたのだらう?」
 このとき、ある考が電光のやうに弁護士の脳裡に閃いた。
「わかつた!」
 かう叫んで、彼はつかつかと次の間へ行き謎の男に言つた。
「あなたですね? 山岸事件の真犯人は?」
 男は大きくうなづいた。さうして細い声を出して言つた。
「私は先生が、どうして、真犯人を御承知になつたか、実に空恐ろしい思ひが致しました。でも、真犯人を知つて居てもその名を言はぬと突張つて下さつたことは……大に……感謝致します。」
 その声がいかにも苦しさうだつたので、弁護士は思はずそばへ近よつた。
「やツ、あなたは、毒を、毒をのみましたね?」
「先生、どうか捨てゝ置いて下さい。……委細は懐中の……告白書に……」
 言ひながら、ばたりと男は俯伏した。
 庄司弁護士は心の中で叫んだ。「人間のことは、何が本当で何が嘘だかわからない。あの女の見誤りから、川村は救はれ真犯人は自決した。
 彼女は、俺に自分の顔は見えぬ筈だと言つたが、彼女にも犯人の本当の顔は見えなかつたのだ……」(完)

底本:「新青年」昭和3年1月号