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赦罪


 小酒井不木


 青野医学博士は、生れつき片眼の不具者である。で、開業はしないで文筆生活をした。
 すべて、不具者は嫉妬心の強いものであるが、青野博士の嫉妬心はむしろ病的であつた。博士はすべての自分の所有物を、もしや他人に奪はれはすまいかと、つねに不安と恐怖とを感じた。
 その不安と恐怖とは、極端な行動となつてあらはれた。
 一例をあげるならば、博士はその何万冊といふ蔵書に、一々鶏卵大の楕円形の、赤い蔵書印を捺した。蔵書に印を捺すのは別に不思議ではないが、普通の人ならば、蔵書印は、扉に一つとその他のところにせいゞゝ一つか二つ捺すぐらゐであるのに、博士はほとんどすべてのページに、而も幾つとなくべたゝゝ捺した。さすがに文字の書かれてある上には捺さなかつたが、余白はほとんど真赤であるといつてよかつた。
 かういふわけであるから、夫人――博士の説にしたがへば、夫人もやはり博士の所有物であるさうだが――に対する嫉妬は、まさに、最上級のものであつた。オセロなどは足もとにも及ばなかつた。
 長男の生れたとき、博士は産婆が湯に入れる前に、赤ん坊の耳朶から血液をとつて、その何型に属するかを検査した。さうして第三者の胤がまじつて居ないことを確かめ、はじめて安心することが出来た。
 けれども、人間には反抗心といふものがある。書物は博士の嫉妬心に向つて反抗しなかつたが夫人は反抗した。一口に言へば、夫人はAdueteryの罪を犯したのである。
 ところが、すべての反動的行為の例に洩れず、夫人のそれも、過度に赴いて、遂に第三者の胤を宿すに至つた。
 すると、夫人は当然、底知れぬ苦悶と恐怖との渦に巻きこまれた。
「また姙娠したな?」
 敏感な博士はある日、夫人に向つてかう念を押しながら、につと笑つた。
 ひそかに、人工流産を行はうかと思ひ迷つて居た夫人の顔は蝋のやうに蒼ざめた。もはや人工流産を施すことは出来ない。若し施せば、それこそ、忽ち罪を観破される。
「あなた、こんどもまた、血液を御検べになるの?」
 博士の上機嫌だつた日に、夫人は、平静な声を装つてたづねた。
 すると博士の顔は煤のやうに曇つた。
「勿論。何故?」
 夫人は、その時の博士の眼が、豹のやうに光つたのを見て、恐ろしさに返答することが出来なかつた。
 然し、このことは、博士の心に疑惑を誘つたらしかつた。ある夜、夫人は博士の寝ごとに起された。
「……人工流産をしても、胎児の血液を検べればわかるから駄目だよ……」
 すべて、寝ごとは、相手になつてやると、いつ迄も続くものである。夫人はすかさず、
「では、どんな子が生れたら、血液の型を検べないで満足なさるの?」と、たづねた。
 博士は寝ごとで答へた。「それはだ。俺のやうに片眼の子でも生れたら…」
 夫人は、ぞつとしたが、それからといふもの、何とかして片眼の子を生みたいと、日夜念願した。
 夫人はひそかに博士の書斎にはいつて、片眼の子を生む方法はないものかと、片つ端から書物を葉繰つた。外国語を辛うじて読むことが出来たのは、夫人にとつて幸福なことであつた。
 すると夫人は、ある英書の中に、次の文句のあることを発見した。
 ……most of the children born in adultery have a greater resemblance to the legal than to the real father.
 さうして、そこにはなほ、「adulteryの子は母の罪を赦す」といふ外国の諺が書かれてあつた。
「罪を赦す」とはくすぐつたい言葉であるが、夫人は、これを読んで幾分か安心した。
 ところが、更に、夫人は、そこに挙げられてある例を見て、安心の度を増した。それは、一八六八年発行のAmerican Journal of the Medical Sciencesにミチエル氏が報告したものである。
 数人の子をもつた黒人の女が白人と通じて姙娠した。子が生れゝば、罪は立ちどころにあらはれるから、彼女は大に心配した。ことに彼女の良人は両手とも六本指の不具者で、至つて嫉妬が強かつたから、その煩悶は甚だしかつた。すると、月満ちて子が生れた。生れた子は、黒白まだらなミユラトだつたが、両手の指は六本づつあつた。良人が満足したのは言ふ迄もない。
「ことによると、わたしのお腹の子は片眼であるかも知れない。」
 心の中でかう呟いて、一旦は安心したものゝ、やはりその安心は長く続かなかつた。
「どうしたら片眼の子を生むことが出来よう?」
 そこで、夫人はさらに、良人の書斎をあさつた。すると、ある書物に、姙娠中にたえず一つの絵像をながめて居ると生れた子はその絵像の姿に似るといふことや、姙娠中に見た印象が、そのまゝ胎児の皮膚に印せらるといふ沢山の例証が掲げてあつた。
 夫人は喜んだ。さうして、伊達政宗の絵像をかけようかと思つたが、それは却つて目立つから、いつそ、良人の顔を毎日毎晩出来る限り、よく眺めようと決心した。
 その後、夫人は書斎にこもり勝の博士のそばに侍つて、その片眼の顔を見るに務めた。嫉妬心の強い博士は、うるさいとも言はず、却つて喜んで居るかのやうであつた。博士の執筆して居る間は、夫人は書見した。博士が顔をあげると夫人も顔をあげて、互に見合つた。
 博士はだんゝゝ機嫌がよくなつた。夫人は、ことによると、良人が、生れた子の血液を検べないで済むかも知れぬと思つた。
 然し、その期待は全然裏切られたのである。
 いよゝゝ陣痛がはじまると、博士は採血の用意をした。
 夫人はもう、気が気でなかつた。
 分娩は済んだ。が、生れた女の子には両眼があつた。
 博士は引つたくるやうに、赤ん坊をつかんで、あはや血を採らうとしたがはたとその手を休めて、胎児の額に見入つた。
 といふのは、額の上に、鶏卵大の楕円形の真赤な痣が、鮮かに印せられて居たからである。而もその楕円の中には次の六箇の文字がはつきり読まれた。
   青野所蔵の印
「ふ、ふ、ふ、」と、青野博士は晴れやかに笑つて言つた。「もはや、血を採るには及ばない。」

 

底本:「新青年」昭和2年11月号