一
河村八九郎は今年二十歳の二重人格者である。
第一の人格で彼は大星由良之助となり、第二の人格で高師直となつた。
彼がどうしてこのやうな二重人格者となつたかは、はつきりわかつて居ない。父が大酒家であるといふ外、父系にも母系にもこれといふ精神異常者はなかつた。たゞ父方の曾祖父が、お月様を猫に噛ませようと長い間努力して成功せず、疲労の結果、人面疽にかゝつて死んだといふことが聊か注目に値するだけである。
母が芝居好きで、よく彼を劇場へ連れて行つたことは、はじめて彼が大星由良之助となつた間接の原因に数へてよいかも知れない。
「委細承知……はァはァ」
これが彼の、人によばれた時の返事であつた。
「獅子身中の虫とはおのれが事……」
これは彼が弟を折檻する時の言葉であつた。
ある時、八九郎は、原因不明の熱病にかゝつた。三日三晩眠りつゞけて目がさめた時、彼は、
「鮒ぢや、鮒ぢや」
と叫んだ。母親はお腹がすいたためであらうと思ひ、早速鮒を煮て持つて行くと、
「さなきだにおもきが上のさよ衣」
かういつて、彼は蒲団をはねのけたので、母親は、熱病のために彼が、高師直になつたことを知つたのである。
高師直の状態が一ヶ月ほど過ぎると彼は再び大星由良之助になつた。さうして自分が高師直の時に行つたことを何一つ記憶して居なかつた。同様に、高師直の時には、大星由良之助の時に行つたことを少しも覚えて居らなかつた。
大星の状態が三週間ほど続くと、又もや、彼は高師直になつた。さうして二週間の後、更に大星由良之助になつた。
それから、十日の後、高師直
同じく八日の後、大星由良之助
同じく七日半の後、高師直
同じく七日の後、大星由良之助
…………………………
…………………………
同じく三日の後、高師直
同じく二日二十時間の後、大星由良之助
…………………………
…………………………
だんゝゝ、第一人格から第二人格へ第二人格から第一人格へ移る時間が縮められて行くのを見て、八九郎の両親は心配し出した。若し、その時間が極度に縮められた場合、其処に当然高師直と大星由良之助が同時に意識の上にあらはれ、高師直は大星由良之助のために殺さるべき運命になるからである。換言すれば、八九郎は、われとわが身を滅ぼすことになるからである。
そこで両親は医師を招いて、何とかして、人格交替の時間を長くする方法はないものかと相談した。けれども、誰も、この要求に応じ得るものはなかつた。
とかくするうち、八九郎の人格交替の時間はいよゝゝ減じて行つた。両親はあせつた。
すると、最後に罹つた医師は、T市に一大精神病院を開いて居る鬼頭博士を推薦し、同博士ならば、必ず適当な方法を講じて、八九郎を自殺の危険から救つてくれるであらうと言つた。
そこで、両親は、八九郎を連れ、遙遙T市をたづねて、鬼頭博士の診療を請ふことにしたのである。
二
こゝで、読者に、鬼頭博士の精神病治療法を紹介する必要がある。
ある時病院内の一人の患者は、夏の夕方、東方にあらはれた虹を見て、自分も虹になりたいと言ひ出した。精神病者が一たん言ひ出した以上、その希望をかなへてやらねばどんなことを仕出来すかわからない。
然し、その患者に附いて居た看護人は、不馴れであつたため、すぐさま、医員を呼びに行かないで、患者に向つて、そのナンセンスなことを告げた。すると患者は、せめてあの虹を取つてくれろと言ひ出した。看護人は又もや笑つて相手にならなかつた。
そこで患者は、自分の左手を出して虹をつかまうとしたが、もとよりその手は届かなかつた。と、患者は憤慨して、右手でナイフを握るなり、あツと言ふ間に、左の前腕を切り捨てたのである。
看護人は驚いて急を鬼頭博士に告げた。
博士はとりあへず繃帯を施し、静かに患者に向つて言つた。
「君はどうしても虹になりたいのか。」
「はい。」
博士は切り捨られた腕を拾ひ上げて言つた。
「君のこの腕を虹にしてやるが、それで我慢出来ぬか。」
「それなら、我慢します。」
博士は直ちに助手に囁いた。すると、間もなく助手はブンゼン燈や鍋や薬品などを持つて来た。
鬼頭博士は鍋の中へ腕を入れ、薬品と共に煮た。その頃、もはや東の空の虹は消えて居た。
暫らくすると鍋の中に、粘稠な塊が出来かつた(※1)。患者は熱心にそれを見つめて、いつ自分の腕が虹になるであらうかと不思議がつて居るらしかつた。
やがて博士は、その粘稠な塊を皿の上にのせ、それを水にとかした。さうして、竹の管の先にその溶液をつけるなり、管の一方を口に当てゝ静かに吹いた。
球が拡がると、美しい虹が管の先にあらはれた。
「有難う御座います。」
かういつて患者は泣き出した。彼はそれほど満足したのである。
いふ迄もなく、博士は、患者の腕を煮て石鹸を作つたのである。
三
ある時、一人の患者は、腰から下が石になつたといひ出した。
さう信ずるなり、彼は脚を上げることも出来なければ、また歩くことも出来なかつた。
助手たちは、何とかして彼を歩かせようとしたけれども、すべての試みは無駄であつた。せめて片一方の脚だけでもあげさせることが出来れば、石になつたといふ信念を打ち破ることが出来るからと思つて、色々苦心して見たが、少しも成功しなかつた。
「君たちは、患者の脚を上げさせて、患者の信念を打ち破らうとするからいけない。先づ患者の信念を別の信念に置きかへて、脚を上げさせ、次でもとの信念を破るやうにすればよい。精神病治療にあたつては、すべての妄想は他の妄想をもつて打ち破るより外はない。」
かう博士に諭されても、助手たちは如何なる妄想を患者に起させてよいかわからなかつた。
「よし、では、患者をこゝへ運んで来たまへ。」と、博士は言つた。
やがて患者は石のごとく運ばれて来た。博士は助手や看護人を去らしめて患者と二人きりになり、催眠術をかけて、患者の妄想を、他の妄想に置き替へた。
「これで、脚を上げるやうになるよ。」
博士は人々を呼び入れて、患者を運び去らせながらかう言つた。
助手たちは、患者の室に集つて、果して、患者が脚を上げるだらうかどうかを気づかひながら、熱心に患者を見まもつた。
数十分間は何ごともなかつた。
と、患者は、その右の脚を、すうつと高くあげた。
助手たちは感嘆の声を発した。
が、それと同時に患者は、「小便がしたい」と言つた。
排尿の間、患者は上げた脚をおろさなかつた。
すると、想像力の発達した一人の助手は叫んだ。
「わかつた、わかつた。先生は、患者の妄想たる石を犬に置き換へたんだ。」
いかにもその通り、鬼頭博士は、患者をして、腰から下が犬になつたと信ぜしめたのである。
四
このやうな博士の治療法も、時として失敗することがあつた。
こゝに述べるのはその失敗談の一つであるが、博士はこの例に於てその治療計画に失敗したとはいへ、事実に於ては治療の目的を達したのである。
ある時、入院患者の一人がピストルで脳天を打つた。
もとより彼は自殺するつもりであつたが、額に水平にピストルの筒を当てて引がねを引けばよかつたものを、奇を好んで、てつぺんから垂直に打ちこんだため、弾丸は脳の中へはいつて、笑ひの中枢を冒しただけで、生命には別条なかつたのである。
かくて患者は笑ふことが出来なかつた。けれども、自殺を図るやうな憂鬱な患者にとつて、笑ふことは、何よりも必要である。
だから、助手たちは、患者を笑はせることも苦心した。
けれども、どのやうな方法を講じても、患者は笑はなかつた。へんな仕草をして見せたり、脇の下をくすぐるやうな常套手段から、亜酸化窒素吸入のごとき化学的方法まで講じたけれども効はなかつた。
そこで最後に、助手たちは、患者を鬼頭博士のところへ連れて行つた。
博士は暫らく考へて居たが、やがて、名刺の裏に何やら書いて、患者に渡して言つた。
「この文字を、君、誰にでもよいから見せたまへ。きつとその人は君が笑はずに居れぬ姿をするよ。その代り君は決して、この文字を見てはならない。」
患者は病室にかへるなり、早速他の患者に名刺の文字を見せた。
すると、それを見た患者は、その場に逆立ちした。
普通の者ならば、その姿を見て必ず笑ふ筈であるのに、患者は笑はなかつた。
けれどもそのことは患者の好奇心をそゝつた。彼は看護婦が来るのを待つて、名刺の文字を見せた。
すると看護婦もその場でピンと逆立ちした。
それでも患者は笑へなかつた。けれども、好奇心は拡大された。
そこで、彼は、庭園を犬をつれて遊んで居た子供に近より、名刺の文字を見せた。
すると、子供も犬もその場で逆立ちした。
けれども、患者はやはり笑へなかった。反対にその好奇心は極度に達して博士が見てならぬといつた言葉を冒して、名刺を裏返して、その文字を読んだ。
読むなり、自分もその場でくるりと逆立ちするを余儀なくされた。
が、逆立ちすると同時に、脳の中へはいつて居た弾丸が抜け落ちたものである。
患者は始めて笑ふことが出来た。
弾丸のために笑ひの中枢が冒されて居たのであるから、逢ふ人々を逆立ちさせて、患者を笑はせようとした鬼頭博士の考は、根本的に誤つて居たのである。然し、博士の計画は、偶然にも患者を笑はせることに成功した。
それにしても、逢ふ人々や犬までも逆立ちせしめた文字は何であらうかと助手が、名刺を拾つて検べて見ると、其処には、
レンズとスリガラス
と書かれてあつた。
なるほどこの二つをもつてすれば、あらゆるものは逆立ちする筈である。
五
右の次第であるから、二重人格者河村八九郎の、人格交替の時間短縮をさまたげるために、鬼頭博士が推薦されたのも当然のことであつた。
博士は、両親に連れられて来た八九郎を診察し、その病歴を委しくきいてから、両親に向つて言つた。
「なに大丈夫ですよ。たとひ人格交替の時間が極度に縮められても、元来、大星由良之助と高師直は、お芝居の人物ですから、たゞ大星が師直を殺す真似事をするだけですよ。本当に死にはしないから、安心なさい。」
けれども、両親の不安は去らなかつた。
母親は言つた。御芝居でも身がはいると、殺す真似をして本当に殺してしまふことがあるときいて居ります。ですから、念のために、由良之助から、師直に移る時間を長くして下さいませ。」
「残念ながら、交替の時間が極度に短縮されるまで、之を防ぐ方法はありません。」
母親は顔色を変へた。父親は歯を喰ひしばつた。
「然し、」と、博士は続けた。「その交替時間が極度に短縮されたとき、たつた一つ、時間をのばす方法があるのです。」
両親は忽ち元気づいた。「どうぞそれを教へて下さいませ。」と、口を揃へて頼んだ。
「よろしい。では処方を書いてあげませう。」
かう言つて博士は紙片に次の文字を書いた。
高速度映画撮影機
(※1)本文ママ
底本:「新青年」昭和2年11月号