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「疑問の黒枠」(解決篇)


 小酒井不木

 第二十二章 訊問


 それから、二時間ほど過ぎて、村井家の応接室で、鹿島刑事は、肥後君と押毛を立ち合せて、女中のお霜を訊問した。
 母の臨終の口から、「お父さんを殺したのはわたしだ。」ときいたとき、富子は驚く前に、今の母の言葉を誰かに聞かれやしなかつたかと、思はずも、あたりを眺めまはした。が、次の瞬間、母の死といふ重大な事実は、彼女をして、先刻病室から立退いた人々を呼ばしめたのである。
 引き続いて起つた混雑! それは今こゝで述べる必要のないことである。富子は母の死体を前にして、世の常の人のやうに悲しんだが一時のシヨツクが去るとともに、母の臨終の言葉が気になり出した。
 母の敷布団の下からあらはれた丸薬のケースと、母の臨終の言葉とによつて、他人ならば、母を恐ろしい良人殺しの犯人と認めるかも知れぬが、富子は絶対にそれを信ずることが出来なかつた。母の父に対する平素の態度と、母のやさしい心根から推して、たとひどんな複雑な事情があらうとも、そのやうな極端なことを行ふ筈がない。
 もとより、母が直接父に毒の丸薬をのませたのでないことは、模擬葬式の始まる少し前には殿山医師が母の枕もとに附いて居たことでもわかる。たとひ母が父を殺さうと企てゝも、毒をのませたのは別人でなくてはならない。けれども、母は、父を殺さうなどといふ心を夢にも起す人ではない。あれほど父をしたひ、あれほど父を敬ひ、あれほど父に感謝して、父の言葉に絶対に服従して居た母ではないか。
 が、それならば、なぜ母は、あのやうな恐ろしい言葉を発したか。母の意識が全然溷濁して居たとは思はれない。又、自分の耳が聞き違へたとも思はれない。いかにもそれは夢のやうな一瞬間ではあつた。けれどもそれはたしかに戦慄すべき現実であつた。彼女の心に拭ひ去ることの出来ぬ強いシヨツクを与へた永久の真実である。
 此を思ひ、彼を思ふと、母は、臨終に「いつはり」を言つたことになる。何のために? かう思ふと、富子は、何となく母がうらめしかつた。尤も、あの際、今少し母の息が続いて居たならば、もつと委しいことを聞き得たかも知れない。と思ふと、母の病気そのものがうらめしかつた。が、徒らにうらむだけでは真実を知ることが出来ない。かといつて、母がいつはりを言つたといふ証拠はどこにもない。
 若し、自分さへ口を噤んで居たならば、母の臨終の言葉は永久に誰にも知られない。たとひ、母の敷布団の下から、丸薬のケースが出たといふ事実はあつても、それは他人がひそかに其処へ入れたとも考へられるから、それだけで、母に人殺しの罪を被せることは出来ない。
 かう考へて富子は、母の臨終の言葉をいつそ自分の胸一つにをさめて、誰にも告げないで置かうかと思つた。けれども、自分の胸一つにをさめて置くといふことは、母の言葉をそのまゝ是認することであらねばならぬ。父の霊も恐らく、それを欲しないであらう。それ故、むしろこの際、母の臨終の言葉を人々に告げて、真犯人の搜索に資した方が得策であらう。母が、自身を犯人だと言つたのは、たとひそれがいつはりであるにしろ、自身を犯人であると信じてほしかつたからであらう。だから、人々に母の臨終の言葉を告げたあげく、真犯人があらはれずに、母が犯人であると見なされても、母にとつては本望であるかも知れない。若し母が、他人の罪を自身に引き受けるために、あのやうな言葉を発したのだとすれば、却つて母が犯人であると見做された方が、母の霊はやすまるかも知れない。
 母の臨終の言葉を人々に告げようか告げまいかと思ひ迷つたあげく、遂に告げることに決心したのは彼女が母の死に逢つてから一時間半ばかり過ぎてからであつた。
 話変つて、村井夫人の死を伝へ聞いた鹿島刑事は、混雑を思ひはかつて、一旦署に引き上げようとしたが、夜更のことであるから、自宅へ帰ろうかとも思つた。然し、何だかこのまゝ帰るのは職務上の良心にそむくやうな気がした。といふのは、鹿島刑事は、村井氏の死に纏はる秘密即ち真犯人の名が、この家で聞き出せさうに思つたからである。
 丸薬のケースが村井夫人の敷布団の下から出たことについて、刑事は、村井夫人が、真犯人を知つて居るにちがひないと考へたのである。けれども、今、その夫人が死んでしまつたので、刑事は頼みの綱を切られた思ひがした。この上はやはり殿山と書生とが麻酔剤から恢復するを待つて訊問を行ひ、それによつて真犯人を捜すより他はないと思つた。
 ところが、鹿島刑事は重ねて失望すべき破目に陥つた。といふのは、村井夫人が死んでから一時間ほど過ぎると、殿山と書生とを門前署に運んだ部下の刑事から、殿山が、麻酔から醒めるなり、にはかに、とりとめのないことを口走つて、恰も発狂したやうな態度になつたこと、及び、書生は、はげしい嘔吐を催して苦悶し、二人とも、警察医の手当を受けつゝあるといふ報告を電話で受取つたからである。
 鹿島刑事はどうしてよいかに迷つた。応接室に居残つて居た押毛は、夫人の死をきいて出て行き、中沢も富子も肥後君も、奥に居て色々のことをして居ると見え、とんと顔出しをしなかつたから、一時刑事はひとりきりになつて今回の事件について考にふけつたのである。けれども、別に、これといふ解決の緒を見つけ出すことが出来なかつた。
 彼此するうち、肥後君が応接室に来て、富子がきいた夫人の臨終の言葉を告げたのである。
 が、それをきくなり、刑事の心はにはかに緊張した。即ち、刑事は、夫人が村井氏に直接毒を与へる筈がないから、たとひ夫人が村井氏を殺すことを計画しても、毒を与へた者は、他にあらねばならぬと考へたのである。さうして、さう考へると同時に、先刻押毛から、中沢と富子との監禁されて居た家が、女中お霜の生家であるときいて、お霜を訊問するつもりになつて居たことを思ひ起したのである。
 で、鹿島刑事は、お霜を応接室によび、肥後君と押毛に立会つてもらつて、訊問をはじめた。訊問といつてももとより正式な訊問ではなく、相手が二十前後の若い女であるから、刑事は極めて気軽な態度でたづねるのであつた。
 最初、殿山医師と自分の生家との関係を問はれてお霜は語つた。
「私の父は、殿山の大先生が、まだ御若い時分に、男衆をつとめて居つたことがありますので、今の先生の代になりましても、よく御出入りをさせて頂いて居ります。」
「お前は、それでは、殿山さんの御世話で、こちらへ御奉公に来たのか。」
「いゝえ。私は、口入屋の手でまゐりました。私の母は私とは義理ある仲で御座いまして、私は幼い時分から、親身の叔母の手で育てられました。叔母は、私の実家のそばに住んで居りますが、私の実家とは訳あつて仲たがひで御座います。殿山先生は、おほかた、私のことをちつとも御存じないと思ひます。」
 この返答をきいて、鹿島刑事は軽い失望を感じた。お霜が嘘を言つて居るのでないことを、経験ある刑事は、お霜の顔つきから容易に判断することが出来た。して見るとお霜の両親は殿山に義理を感じても、お霜は殿山と沒交渉であるばかりでなく、殿山がお霜に重大な手先を頼むやうなことはありさうにない。
 これで、殿山とお霜との間に必然的の関係のないことは推定された。けれども、今回の事件は、必然的の関係でなくても、いはゞ偶然的の関係でも起り得る。即ち、殿山がお霜を偶然、毒殺の手先に使つたやうなことがないとはいへない。換言すれば、模擬葬式のはじまる少し前に、殿山がお霜にむかつて、「旦那様に、いつもの丸薬を召しあがるやう、さう言つてくれ」と告げたかも知れない。
「一昨日の晩、十二畳の広間で、お葬式のまねごとがはじまる前に、お前は、殿山さんに何か言ひつかりはしなかつたか。」
「いゝえ。」と、お霜は、却つて不審さうな顔をして答へた。
「お前は、御主人が、何でなくなつたか知つて居るかね?」と、刑事は重々しい声で言つた。
「はい。お竹さんからきゝました。」
「御主人は、誰かに毒をのまされなさつたのだ。そこで、俺は誰がのませたかを探し出さねばならん。お前がお主人の御恩を報じようと思ふなら、俺のきくことを正直に答へてくれ。」
「はい。」
「お前は、奥さんに、何か頼まれはしなかつたか。」
「どんなことをで御座いますか。」
「お前は平素御主人が丸薬を持薬として見えたことを知つて居るだらう?」
「旦那様は、まるい丸薬の箱を御持ちで御座いました。」
「さうゝゝ。で、お葬式がはじまる前に、奥さまから、何かその丸薬のことをきゝはしなかつたかね?」
「いゝえ。」
「きつとだね?」
「はい。」
「お前は、お葬式のはじまる前、何処に居た?」
 お霜はこの質問に対して、すぐさま返答し得なかつた。刑事はぢつとお霜の顔を見つめたが、それは、罪をかくす顔ではなくて、はつきり思ひ浮べることが出来ない顔であつた。
「それでは、こちらから、たづねよう。お前は一昨日どんな御客様達がここへ来られたか知つて居るかね?」
「はい、親戚の……」
「いや、さうぢやないよ。親戚の御方は、お葬式のはじまるまで、この応接室に見えただらう。俺のきくのは、お葬式のはじまる以前に来られた御客様だ。」
「色々なお方が見えました。」
「それを言つて御覧!」
「先づ、女の手品師とお弟子が二人、それから御院主様と御伴僧……」
「その人たちが見えたのは何時頃だつたね?」
「四時頃でしたと思ひます。」
「それから、誰が見えたね?」
「殿山先生が五時半頃に見えました。」
「よくおぼえて居るね。ところで御主人は棺の中へはいる稽古をなさつただらう?」
「はい。」
「それは、何時頃までなさつたかね?」
「よく知りません。」
「御葬式のはじまるすぐ前までなさつてたかね?」
「いゝえ、殿山さんがおいでになつてから、三十分ほども過ぎた頃には、もう、やめておゐでになりました。」
「そのとき御主人はどこにおゐでになつたかね?」
「御仏間で御座います。恰度、私が御茶をもつてまゐりましたから、よく知つて居ります。」
「御仏間では誰と一しよに見えたかね?」
「御院主様とお伴僧と三人で話しておいでになりました。」
「手品師たちは?」
「広間で用意をして見えました。」
「それからお葬式のはじまるまで、御主人は仏間に見えたかね?」
「それはよく存じません。御茶をもつて行つてから、庭へ出て見ますと、お嬢さまが、一人で泣いておいでになりました。それからはずつと、御勝手の方に居りました。」
 お霜の訊問をして居るとき、だんゞゝ、鹿島刑事の頭に捜索の方針が定まつて来た。一昨夜以来の数々の異常な出来事、即ち、富子と押毛が姿をかくした事や、村井氏の死体の紛失などで、刑事の捜索方針は一旦撹乱されたが、今、それ等のことが、村井氏の死の秘密と直接の関係を持たぬとわかると、再び、もとの軌道に立ちかへつて、捜索の歩を進めることが出来ると思つた。で、刑事は、村井氏が、棺の中に入る少し前に、誰と一しよに居たかを知らうと欲したのである。村井氏を殺さうと計画したのが誰であつても、村井氏に直接毒をのませたものは、夫人、令嬢、二人の女中、奇術師の一行、僧侶の一行のうちに求むべきであらうといふ考がはつきりして来たのである。
 ところで今、お霜の口から、村井氏が模擬葬式を行ふ少し前には、仏間で、二人の僧侶と一しよに居つたといふことが語られた。然し、お霜は、葬式のはじまる直前に果して二人の僧侶が村井氏と一しよに居たかどうかを知らない。で、刑事はこの点をたしかめようと思つたのである。
「ありがたう。」と、鹿島刑事はお霜に向つて言つた。「もうお前には用がないから、あちらへ行つてよろしい。その代り、一寸、お竹さんをよんで下さい。」
 お霜が去ると、刑事は肥後君と押毛の顔を見くらべて言つた。
「どうです。どうやら、事件は一点に集まつて行きさうですなあ。」
 肥後君も押毛もうなづいた。
「まさか坊さんたちが、村井さんに毒をのませようとは考へられませんが、然し、世の中にはどんなこみ入つた事情がないと限りません。」と、刑事は続けた。「ですから、村井さんが、姿をかくす稽古をやめて、仏間へ行つて坊さんたちと語られてから、棺の中へはいられるまでの、行動を明かにしなければならんと思ひます。」
 この時、女中のお竹がはいつて来た。
「早速だがお竹さん、一昨日、御主人が棺の中へはいられる少し前に、何処に居られたかお前は知らないか。」
 お竹は暫く考へてから言つた。「さあ、はつきり覚えては居りませんが、離座敷の方から仏間の前をとほりかゝりますと、旦那様は御院主様と御話ししておいでになつたやうです。」
「御院主と二人きりだつたかね?」
「さうだと思ひます。お伴僧の了諦さんは、広間の床の間に掛け物をかけて居られました。」
 刑事は思はず、肥後君の方を向いた。肥後君の眼は急に輝き出した。
「それは、葬式のはじまるすぐ前だらうか。それとも、もつと前だらうか。」
「そのことはよく覚えて居りません。」と、お竹は、記憶を辿らうとする顔付をして答へた。
「よく思ひ出して下さい。大切なことだから。」と、刑事は重々しい口調で言つた。「それではその時分、殿山さんは、何処に居たかね?」
「離座敷に御ゐでになつて、奥さまに、附ききつて見えた筈です。」
「それではお前は、模擬葬式の時には離座敷には居らなかつたのだね?」
「はい、お霜さんと、御勝手の方に居りました。」かう云つてから、お竹は何か思ひ出したと見えてあかるい顔をした。
「何ぞ心当りがあるのかね?」と、刑事はすかさずたづねた。
「別に心当りといふほどでも御座いませんが、お葬式がはじまる頃に、庭へ出ますと、主家のはばかりの手水鉢で手を洗ふ音が聞えました。それが旦那様か又は御客さまだつたか物かげになつて居りましたのでよくわかりませんでした。」
「ふむ。」と、鹿島刑事は考へこんだが、もとより、それだけでは、事件の真相を判断するに役立たなかつた。
「よろしい。もうあちらへ行つてください。」
 お竹が去ると、肥後君は言つた。
「どうも住職が怪しいやうですねえ。」
「さうですなあ。」と、刑事は考へこんだ。「若し住職が、模擬葬式のはじまる一時間ほど前から、村井さんのそばに、ぢつと居られたのであるならば、住職を疑はねばなりませんが……」
「然し、」と、押毛が遮つた。「奥さんの臨終の言葉も参考にせねばならんと思ひます。」
「そこですよ。」と、刑事は言つた。「で、問題は、若し、住職が怪しいとすれば、住職が、奥さんに頼まれたかどうかといふ点にあると思ひます。」
 この時、肥後君は、急に興奮して言つた。「住職が犯人だとすれば、丸薬のケースをかくしたことも、極めて自然に解釈がつきます。が、それについて思ひ当ることは、今晩こちらへ見舞に来た住職の態度です。住職は何となく落つかぬ様子をして、僕等の捜索の模様を根掘り葉掘りたづねました。僕が、丸薬のケースを盗んだのは殿山医師だらうといひますと、うつかり、住職は「ちがひます」と言ひました。住職は僕がこゝへ来るまで病室に居られた筈ですから、ことによるとその時住職が、丸薬のケースを、奥さんの敷布団の下へ入れたのではないかと思ひます。」
 この言葉をきいて刑事も押毛も暫らく無言で考へた。
「さあ、そこまで考へてよいかどうかは疑問ですが、兎に角こりや、住職に逢つて見る必要があります。」
 かう言つて刑事は時計を出した。
「おや、もう三時ですなあ。」
 押毛は言つた。「これから、私は、奥さんが死亡なさつたことを通知かたゞゝ、東圓寺へ行つて、住職を呼んで来ませうか。」
「もう、夜明まで間もないことですから、朝になつてからでよいでせう。」と、刑事はさすがに疲労の色をうかべて言つた。
「別に急いで御寺に通知する必要もないでせうから、七時頃に使ひを出して下さい。それまで私たちは、どこかの隅で、やすませて貰はうではありませんか。ねえ、肥後さん、本来ならば、御通夜をすべきですが、事件の謎を解決しようと思へばちと頭をはつきりさせて置かねばなりませんからなあ。」


 第二十三章 真犯人


 十月二十三日の朝である。
 引き続き悲しい出来事のあつた村井家に、意外な悲しい報知が齎らされた。
 それは東円寺住職友田覚遵師の突然の死であつた。
 鹿島刑事たちがまだ眠つて居た午前七時頃、東円寺の伴僧了諦は、村井家にかけつけて、鹿島刑事に至急に御目にかかり度いといつた。刑事はそれをきいて直ちに飛び起き、了諦を応接室に待たせて、身支度をし、やがて応接室で対座した。
 了諦は何となく落つかぬ様子をして居た。蒼い顔が一そう蒼ざめて見えた。
「実は、和上が自殺をなさいました。」
 あまりに意外な言葉に、刑事は我が耳を疑つた。
「何? 誰が? 住職が?」
「はい。」
「どうして?」
「さあ、それはわかりませんが、枕頭に、私宛の遺書がありまして、それには、簡単に、自殺したことを、鹿島刑事に知らせてくれと書いてありましたので、只今、門前署の方に御伺ひしたら、多分こちらに見えるだらうといふ御話でしたから、参上致しました。」
「その遺書を持つて居りますか。」
「いゝえ、寺に置いてあります。」
「その外には、もう遺書はなかつたですか。」
「それは存じません。捜したならば、どこかにあるかも知れませんが、私宛のものを見るなり、とりあへず、かけつけました。」
「一たい、いつ頃自殺したのだらうか。」
「ゆうべ、和上は常になく大ぶ遅く御帰りになりました。さうして、あすは、五時半迄寝るから、それまでは起しに来ぬやうにしてくれ、若し、五時半に起きぬやうだつたら起しに来てくれと申されました。いつも、どんなに夜が遅くなつても、五時には必らず目のさめる性質ですから、私は変に思ひました。ところで、今朝五時半になつても和上は起きて来られませんでしたから、いひつけどほり私が起しに行きますと、蒲団の中はもぬけの殻でした。不思議に思つて呼んで見ましたが、返事はありません。下男の爺やにきいても、戸外へは御出ましにならんやうだとの事でしたから、方々をさがしました。すると、本堂の裏の書院の隣にあたる茶の間に、意外にも住職は白衣をまとひ、線香を枕頭に立てゝ死んで居られました。線香は短くなつて煙つて居りましたが、それによつて、まだ、自殺されてから間がないのだと思ひました。胸元に觸れて見ると、果してかすかにぬくみがありました。足元の経机の上に薬包紙と湯呑茶碗とがのつて居りましたので、多分、和上は、毒をのまれたことゝ思ひます。」
「ふむ、さうですか。」と、刑事は落ついて言つた。「実は今朝、こちらの夫人の御なくなりになつたことを知らせかたゞゝ……」
 伴僧了諦が突然立ち上つたので、刑事は驚いて口を噤んだ。
「あの、奥さんがなくなつたのですか。本当ですか。」と、了諦は異様な興奮を、その声にあらはしてたづねた。
「さうですよ。昨夜、たうとうなくなられましたよ。ですから、それを御知らせして、住職にこちらへ来て頂くつもりだつたのです。」
 了諦は刑事の落ついた言葉に、気まり悪さうな顔をして、再び椅子に腰を下した。が、その興奮状態は、なかゝゝ静まらないらしかつた。
「ところが、住職が自殺されたとあつては、どうにも仕方がありませんなあ。」と、刑事は続けた。「実は住職に御たづねしたら村井さんを毒殺した犯人が分るかも知れんと思つたのです。が、どうやら、私の考へたとほりでことによると、住職自身が、犯人かも知れませんなあ。あなたへの遺書に、私へ知らせてくれとあるところを見ると、きつと、私宛の遺書があるにちがひありません。が、それは兎に角、あなたがこゝへ来られたのを幸ひに、一寸、一昨々日の晩のことをきかせて貰ひませうか。」
 了諦は依然として、そはゝゝした様子をして、刑事のこの言葉に対しても、たゞ無言でうなづくだけであつた。彼は熱心に何ごとかを考へて居るらしかつた。
「あの晩、模擬葬式のはじまる一時間ほど前に、村井さんとあなたと住職と三人が仏間で御茶をあがつたでせう?」
「えゝ、さうでした。」
「それから、村井さんはずつと仏間に居られましたか、それとも、他の室へ行かれましたか。」
「それはよく知りません。私はそれから十二畳の広間で、掛け物をかけかへたり色々と準備をしましたから。」
「住職はずつと村井さんのそばに居られましたか。」
「さうのやうでした。」
「何でも、模擬葬式のはじまる頃に、御手洗に行つた人があるといふことですが、それは誰だか知りませんか。」
 了諦は、それを思ひ出さうとして居るよりも、むしろ興奮のために、すぐさま返事が出来ないらしかつた。
「知りません。」
「では、あなたではなかつたですか。」
「いえ、ちがひます。」
 刑事は暫らく考へた。
「こんどの事件について、何か住職に変つた様子でもありはしなかつたか、御存じありませんか。」
「知りません。」
 刑事は、何か頻りに言ひ迷つて居るらしかつたが、遂に決心した。
「実は、奥さんが、なくなられる前に、村井さんを殺したのはわたしだと言はれたのです。」
「えゝツ、それは……」あまりに大きな声を出したので、了諦は自分自身にも気づいて口を噤んだ。
「奥さんが手づから、村井さんに毒をのまされる訳はありませんから、誰か奥さんの手先になつて村井さんを殺したか、或は、奥さんが誰かの罪を引受けて死んで行かれたにちがひありません。で、仮りに、住職が、村井さんに毒をのませた犯人だとすると、住職と奥さんとの間に何か複雑な関係が存在して居たと認めねばなりません。それについて、何か、あなたに思ひ当ることはありませんか。」
 了諦は、刑事が語つて居る間に、幾分かその興奮を静めたらしかつた。
「思ひ当ることはありません。」
「あなたはいつ頃から、東円寺に住みこみましたか。」
「半年ほど前です。」
「さうですか。それでは、深い事情のわかる訳はありませんな。時に、住職は度々村井家へ来られましたか。」
「え、一月に二度ぐらゐのものです。」
「それではあなたも、まだ村井家へは十ぺんかそこらより来ませんですなあ。」
「いえ、いつも和上と一しよに来ると限りませんから五六度にしかなりません。」
「さうですか。それでは村井家の事情もわからず、住職と村井家との関係もよくわからぬ筈ですなあ。それぢや、これから、東円寺へ御供しませう。住職の委しい遺書が発見されるかも知れませんから。」
 それから刑事は、押毛と肥後君に簡単に事情を話し、一しよに東円寺を訪ねることにした。中沢と富子は通夜をして、先刻寝に就いたばかりであるから、起さないことにし、三人は大急ぎで朝食をすまして、やがて自動車を雇ひ、伴僧了諦の案内で東円寺に向つた。
 空は美しく晴れて、秋の朝のフレツシユな感じがすべてのものに漂つて居た。寺の門前で自動車をかへして、了諦を先に三人が境内にふみ入ると、主の死を知らぬ鳰の群は、朗かな声を出して喜ばしさうに鳴きかはして居た。
 了諦は玄関から上つて、三人を本堂の中へ導いた。本堂の中はうすぐらく静まりかへつて、仏具の金色が鈍く輝いて居た。あたりに沁みこんだ香のにほひは、三人に、一種の、軽い戦慄に似たやうなものを起させた。
 三人は今まさに、住職の、自から生命を絶つた亡骸を見ようとするのである。死体を見ることに馴れきつて居る肥後君も、この雰囲気には何となく恐怖を覚えざるを得なかつた。況んや、鹿島刑事と、押毛とは異様な緊張を覚えた。
 案内者の了諦は、尚更、緊張して居るらしかつた。彼は仏壇の正面をとほつて、本堂の裏にあたる茶の間の廊下に出るまで、一言も発しなかつた。廊下は暗かつた。それは、襖が立ちならんで外部からの光線を遮つて居るためである。
 やがて了諦は茶の間の襖の前に立ちどまつた。
「この部屋に和上が死んで見えます。」
 かういつて彼は、興奮のせゐか、がらりと音をさせて襖をあけた。
 その瞬間、彼はあツといふ叫びを発して、室内の一点をながめ、化石したやうに突立つた。三人は、思はず近寄つて室内をながめた。
 室内には住職の死体も線香の煙もなくて、中央に置かれた肱掛椅子に、一人の若い女が、斜にこちらを向いて腰掛けて居た。
 押毛と肥後君とはそれが誰であるかを直ちにさとつた。それは、法医学教室で木乃伊化された雲井龍子の死体であつた。肥後君と押毛とは思はず顔を見合せて、手を握つた。たゞ鹿島刑事は、大きく眼をむいて、予期を裏切つたこの場の光景を息をこらして見つめた。
 やがて、了諦はつかゝゝとその女のそばにかけよつた。さうして叫んだ。
「おゝ妹か、どうしてこゝへ来た。」
 彼は興奮のあまり、まつたく前後をわきまへぬ様子であつた。
「妹!」と彼は今一声大きく叫んだ。「たうとう、かたきを打つたぞ! 俺がかたきを打つたぞ!」
 が、依然として、椅子の女は身動きもしなかつた。了諦は近よつて女の手に触れたが、忽ち、弾かれるやうに後退り、さうして、女の顔を一生懸命に見つめた。
「やツ……」
 それは多分彼が真実を認めた叫びであつたのであらう。然し、彼が、その真実を口走る前に茶の間と書院とを境する唐紙が、自然にスーツと開いた。
 と、其処には、書院の中には、村井喜七郎氏が――否、村井喜七郎氏の生きた侭の木乃伊が――笑をふくんで、椅子に腰かけて居た。
 見るともなしに、村井氏の姿を見た了諦の顔色には、夜叉のやうな表情が浮んだ。
「おのれ! おのれまんだ生きて居たのか!」
 かう叫んだかと思ふと、了諦は、渾身の力をこめて、村井氏に――村井氏の木乃伊に、はつしとばかり躍りかゝつた。


 エピローグ


 その二三日の後、小窪教授と肥後君とは、例の研究室で、いはゞ、今回の事件の総勘定をした。
「東円寺へ行つたときは、全く驚いたです。」
 と肥後君は言つた。「住職が自殺されたといふことは、本当のやうでもあるし、何だか嘘のやうにも思はれましたが、あそこで、雲井龍子の死体を見ようとは思はなかつたです。雲井龍子はまだよいとして、村井さんの死体までがあらはれたのには、全くびつくりしました。尤も、雲井龍子の死体を見たとき、扨は、これは先生の計画であつて、住職の自殺も狂言だなと直感しましたが。」
 教授はにこゝゝ顔から、急に真面目な表情をして言つた。「あんなことをするにも及ばなかつたのだが、やはり、本人の自白がきゝたいと思つたから、あゝしたのだよ。それに、逃亡される憂ひがあつたものだから、住職に、仮死に陥る薬をのんでもらつたのだよ。何にしろ君、僕が真犯人を知つたのは、あの晩、中沢君と富子嬢を助け出して家に帰つてからだよ。住職は僕の帰るのを待ち受けて居て、丸薬の箱を通夜の場でかくしたのは伴僧の了諦だと話してくれた。了諦はみんなが、ごてごてして居るときに、手早く取つたのだが、それを住職に見られたのは、いはゞ彼の運のつきさ。けれども住職はまさか了諦が犯人だとは思へなかつたので、了諦の様子をひそかにながめて居たのだが、別にこれといふ怪しい素振りも見せなかつたさうだ。たゞ鹿島刑事が、前に東円寺をたづねたときに、刑事に、こそゝゝと、村井氏と住職が密談したことを告げたので、住職は彼に対して多少の疑ひを抱かないでもなかつたが、村井家で、君から捜索の模様をきいたとき、こりや捨てゝは置けぬと、僕のところへ走つて来たのだ。
 僕はそれをきくなり、村井氏を毒殺したのはたしかに了諦だと思つた。はじめは無論殿山に嫌疑をかけて居たのだが、ただ一つ合点の行かないのは、丸薬のケースを失へたことだ。殿山が犯人なら、一旦取り出したケースをかくすやうなことはしないからねえ。村井氏を毒殺したものは、模擬葬式の始まる少し前に村井氏のそばに居た者の中にある筈だから、女中と奇術師連か、坊さん連か、殿山かだが、女中と奇術師連は一寸考へにくいから、残る坊さん連と殿山の二三人の中から、先づ僕は殿山を考へたのだ。ところで、殿山に対する疑ひがはつきりしなくなつて来たので、二人の坊さんに疑ひをかけねばならなくなつたが、扨二人のどちらだらうかと思つたとき、都合よく、住職から、丸薬のケースをかくしたものを告げられたので、真犯人は了諦にちがひないと思つたのだ。
 ところで、あの雲井龍子だ。鹿島刑事は彼女に兄があるが、行方不明だと言つたことを君も覚えて居るだらう。雲井龍子の用いた毒の丸薬が、全く今回の村井氏を毒殺したものと同じ性質だと僕は判断したから、若しや龍子の兄がこの事件に関係して居りはせぬかと、思つたが、了諦のことをきいた時、了諦と龍子とは兄妹だらうと直感し、夜更に住職を教室へ連立つて来て木乃伊を見てもらふと、了諦と似たところもあるやうだとの事に、兎に角、一つ、実験を行つて見ようと決心し、住職に事情をはなして、あのやうな狂言を行つてもらつたのだよ。
 了諦が鹿島刑事に住職の自殺を告げに行つた間に、二つの木乃伊を運ばせたのだ。さうして、住職はその時まだ、仮死から回復しなかつたので、別室に寝かせ僕が書院の唐紙を、スーツとあける役をつとめたのだ。」
「あのとき、了諦は、かたきを打つたと妹に向つて叫びましたが、やはり、あの二人は、村井夫人の実子ですか。」
「今朝、鹿島刑事がこゝへ来ての話しに、犯人は大方白状したさうだが、それによると子供心に父親は村井氏に殺されたものと信じて、必ず復讐することを兄妹互に誓つたさうだ。父親の血を享けて、二人とも猛烈な犯罪性が発達したのだ。母のもとをとび出して諸方を流浪して、ますゝゝ二人の心はすさんだ。さうして女の方は一般男子への復讐となつたのだ。何でも四五年前までは、兄妹は互に交通して居たのだが、その後ぱつたり消息を絶ち、了諦は妹が雲井龍子と名乗つて居ることをちつとも知らなかつたさうだ。従つて勿論同じ土地の名古屋で死刑にされたことも知らず、東円寺の茶の間で見たときは、生きて居るものと思つたさうだ。彼の姓の山場といふのもやはり偽名ださうだが、檀那寺に役僧として住みこんで、仇敵に近よる工夫をしたのは、犯罪者としてまつたく上乗の智慧だよ。然し、毒の丸薬を二人がどこで手に入れたかといふことはどうしても白状せぬさうだ。」
「模擬葬式の晩、どうやつて、村井氏に毒をのませたでせうか。」
「了諦はかねて毒殺の機会をうかゞつて居たのだが、先日村井氏が模擬葬式の相談に寺へ行つたとき而もその時丸薬のケースを見たとき、彼は断行の時期を決したさうだ。その晩葬式の始まる少し前に、村井氏は住職と二人で仏間で話して居たのだが、その時了諦は広間に居たさうだ。ところが、予定の七時に近づいたので、住職が手洗に行くと、了諦は仏間へ来て、村井氏に向ひ、これから一仕事なさるのだから例の予防の丸薬をおのみになつてはどうですと言つたさうだ。すると、立つて歩きかゝつて居た村井氏は、おゝさうですなあといつて何気なくケースを取り出したが、蓋をあけた拍子に、了諦が何気ないふりをして身体をかるく村井氏に打つけたので、丸薬が畳の上にこぼれた。そこで了諦はそれを拾ふ振りして、自分の持つていた毒の丸薬をケースに入れたのだ。まつたく、短い時間の間に、世にも恐ろしいことが、而も誰の眼にも触れずに為しとげられたのだ。」
「丸薬のケースを通夜の場で盗んでから、やはり了諦自身が村井夫人の敷蒲団の下へ持つて行つたのでせうか。」
「勿論さうよ。あの日はじめて、夫人は了諦が自分の子だといふことを知つたのださうだ。で、恐ろしくてならなかつたから、殿山医師を呼んで、枕頭に居てもらつたものらしい。中沢君が、村井氏の死を告げに行つたとき、夫人は了諦が殺したのだと直感したらしいが、それとは言へなかつたのだ。それから何でも、夜更けに、了諦は夫人の病室へ行つて、丸薬のケースを見せ、勝ち誇つた顔をして、復讐をとげたことを話し、夫人の眼の前で、敷蒲団の下へケースを入れたさうだ。その時二人の間にどんな会話があつたかを彼は言はないさうだが、とに角夫人はそのために苦しんで、容態が急変し、わが子の為めに、自分で、村井氏殺しの罪を引受るつもりになつたらしく、あのやうな臨終の言葉を発したのだ。」
「なるほど、わかつて見れば、事件の真相は比較的簡単ですが、それにしても、色々な出来事が合併して、表面は極めて複雑なものとなりまして、ことに殿山医師が死体を盗み出したことは、一ばん僕たちを迷はせました。」
「まつたくだよ。死体を盗むには、よほどの重大な理由がなくてはならぬからねえ。然し、彼の常軌を逸した数々の行動は、彼が発狂したことで完全に説明される。彼は疑ひもなくモノマニー的傾向を持つて居たのだ。さうしてそれがこんどの事件で遂に爆発したのだ。」
「それにしても、先生が、今回の村井氏の不思議な計画の首謀者だと知つたときは、僕は全く驚きました。」
「無理はない。」と教授はにつこりして言つた。「然し、それだけに、僕も、村井氏が死んだときいた時は驚いたよ。何としてでも、犯人を見つけ出さねばならぬと僕もひそかに苦労したが、若し住職が告げに来てくれなかつたら、解決はむつかしかつたのかも知れん。」
「でも、先生は犯罪方程式を御考へになつたではありませんか。」
「はゝゝゝゝ。」
 と、教授は大きな声で笑つた。
「学者が机上で考へ出したものなどは、めつたに実際には通用しないよ。僕は今でも犯罪方程式で、犯罪の秘密は解けるものと信じて居るのだが、少くとも、今回の事件には通用しなかつた。然し、それが、僕と押毛君とを結びつける手がかりになつたのは、先づ上出来だつたねえ。」
 肥後君も力抜けがしたやうな笑ひをもらした。
「ですが、村井氏と酷似した死体を、街上に捨てゝ来て、村井氏だと鑑定しようといふ計画は、ずゐぶん大胆ではありませんか。」
「そこだよ君、僕等、いや世間の人たちの考へねばならぬところは、大きな声では言へないが、現今の有様では、法医学者の鑑定は、神様の鑑定と同じに取り扱はれて居るではないか。一旦解剖をして鑑定をつければ、めつたに再鑑定といふことは行はれない。僕は法医学者でありながら、この点にいつも不満を感じて居るのだ。だから、僕は、世間が如何にあまいものであるかをためして見ようと思つたのさ。それに、僕の考案した特種の木乃伊を、実際に役立てゝ見たいといふ好奇心も手伝つたのさ。ところが、木乃伊は意外な方面で役に立つた訳だ。」
 午後の陽はうらゝかに、窓の前の無花果の実を照した。教授は暫らく無言で硝子越しに庭をながめた。
「今迄探偵小説で読んだ犯罪は、一人のすぐれた探偵によつて、手がかりと推理とで見ごとに解決されることになつて居ますが、今度の事件は、幾人かかゝつて、色々な手がかりを見つけても、結局は、それ等のものが役に立たず、いはゞ事件は最も原始的な方法で解決されました。これが当然なのでせうか。」
「先づさうだらうねえ。」と、教授は相変らず庭を見ながら言つた。「然し、今度の探偵の方法を振りかへつて見ると、いはゞ事件をしてそれ自らを解決せしめよといふモツトーに従つたと言ふべきだ。そこに、従来の探偵小説に描かれたやうな探偵方法とちがつた点があると思ふ。とまあ、言つて満足するんだね。それはさうと、あの無花果の実を見たまへ、あれはたしかに探偵趣味だよ。形といひ、色といひ、味といひ、何となくミステリアスなものぢやないか。これから、事件解決の祝ひにあれを小使に取らせて食べようぢやないか。」
 肥後君が賛成して、小使に命令しようと立ちあがると、恰度そこへ、木村がはいつて来た。
「先生、今、先日見えた中沢さんが、若い女の方と一しよにたづねて見えました。こちらへ御通してよろしいですか。」
 教授は立ち上つて、肥後君をかへりみ、
「いよゝゝ遺言状が実行されたのだね?」
 かう言つてにつこり笑つて、木村の方を向いた。
「教授室の方へ御とほししてくれよ、それから、木村、無花果を沢山取つてくれないか。お客さまにも振舞ふのだから。」
 小使が去つてから、教授は言つた。
「ねえ、肥後君、無花果を二人に振舞つては縁喜が悪いだらうか。かまはないねえ、君? ねえ?……」  (をはり)

 

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底本:「新青年」昭和2年8月号