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「疑問の黒枠」(第七回)


 小酒井不木




梗  概
 名古屋の村井商会の社長村井喜七郎氏は、生きながらにして何人にとも知れず死亡広告を出されたが、それを機会に模擬葬式を挙行する。彼は一旦死装束をつけて棺の中へ這入るが、今度蓋を開いてみると死んでゐた。村井商会の社員中沢保は社長の令嬢富子と恋仲で、その模擬葬式の後、結婚披露がある筈だつたが、社長が死んでゐるのを見て、押毛治六の仕業だと思ふ。押毛はその場から令嬢富子と姿を消して了つた。
 村井氏の死体は法医学の泰斗小窪介三氏によつて解剖に附される事になるが、その以前に村井氏の家附医師殿山が死体を盗去る。殿山は又中沢保を誘拐して殺さうとする。



大好評の疑問の黒枠は愈次号を以つて完了します。村井氏を殺害した犯人は何者か、振つて御応募下さい。


 第十九章 邂逅


 富子をひつつかまへて来たといふ書生の叫びは、殿山にも、中沢にも、ちがつた意味で、それゞゝ異様の驚きを与へた。
「何? 富子さんを? 何処に居る?」と、殿山医師は、突然膝を立てゝたづねた。
 書生は、中沢の方には眼もくれず、勝ち誇つたものゝする表情を、その瘠せた顔に漲らせて言つた。
「富子さんは、こゝの家へ連れて来てあります。……」
 殿山医師が立ち上らうとしたので、書生は両手を振つて制した。「そんなにあわてなくてもよいです。しばつてありますから大丈夫です。」
「富子さんは何処に居た?」と、医師は、さすがに、うれしさうな響きをまじへてたづねた。つい今しがた「富子も見つけ次第に殺してしまふ」といつたけんまくは、にはかに和らいで、それを横目で見た保は、却つて、はげしい恐怖を感じた。
「先生、まあ、聞いて下さい」と、書生は、荒かつた息づかひを漸くしづめて語つた。「今日の夕方、僕が自転車で医院へ立ち寄らうとすると、驚いたことに、刑事らしい男が、しきりにベルを鳴らして居りました。僕は危険だと思つて、自転車を、ある家の横側にもたせかけ、物かげから様子をうかゞつて居りますと、やがてその男はかへつて行きました。然し僕はうつかり医院の中へは、はひれないと思つて、暫らく、あたりを警戒して居りますと、程なく一人の洋装の女が、同じく医院の入口に来てベルを押しました。もうその頃は、日もとつぷり暮れて居りましたから、様子をうかゞふには便利でした。だんゞゝ近よつて、その女をよく見ますと、それは、大須の宝石屋で見たことのある奇術師の松華でした…………」
「え? 松華が? 松華がどうした?」と、医師は少なからず驚いたらしかつた。
「僕も、驚いて彼女の行動を見て居りましたが、彼女は中から返答がないので、帰つて行くかと思ひの外、あたりを見まはしながら、憚るやうに、植込の中へはいつて医院の裏手にまはりました。そこで僕は彼女のあとからついて行つて、何をするかと見て居りますと、驚くぢやありませんか。彼女は洋館のうしろの樋を猿のやうによぢのぼつて、二階の窓ガラスをあけて、中へはひりこみました。二階の窓ガラスには、錠がおりて居なかつたと見えます。僕も続いて中へはひらうかと思ひましたが、女ながらも魔術師にかゝつては、どんなことをされるかも知れぬと思ひ、空おそろしくなつて、木蔭から、中を監視して居りました。
 ところが、松華は中々出て来ません。そこで僕は、しまひには我慢が出来なくなつて、玄関の方にまはつて、中へはひらうと決心しましたが、植込の間から街の方をすかして見ると、先刻の刑事らしい男が、向う側に立つて見張つて居りました。で、これはいけないと思ひ、医院の中へはひることをやめ、裏伝ひに一軒置いた隣りの家の路地に出で、表ての男に気づかれぬやうにして、自転車の置いてあるところにかへり、自転車をもつて電車通りまで立ち退き、其処から、見張りの刑事を見張つて居りました。
 すると、どれだけ時間が経つたかよく覚えませんが、見張りの男が今一人殖えました。新らしく来たのはでつぷり肥つた男でした。二人は物蔭にひそんで様子をうかゞつて居るらしかつたですが、何しろ暗いのでよくはわかりませんでした。
 それから暫らくすると、意外にも松華が急ぎ足で電車通りへ歩いて来るではありませんか。はツと思ふ間もなく、でつぷり肥つた男が、松華のあとから歩いて来て、どうやら松華のあとをつけるらしい様子です。そこで僕も松華とその男のあとをつけることにしました。松華はその肥つた男に気づかぬらしく、肥つた男は、僕に少しも気づかぬ様でした。
 やがて松華は電車に飛びのりました。するとあとの男は通りかゝつたタクシーに乗りました。松華は栄町の角で西行の電車にのりかへ、笹島で降りました。男も停車場前で降りて彼女のあとをつけました。ところが、中村行きの電車の起始点の少し手前で、松華は道ばたにとまつて居た自動車に乗つたので、男は狼狽して走りましたがもとより追つきませんでした。僕は幸ひに自転車にのつて居りましたから、全速力を出して、自動車のあとから走り、遂には自動車とすれゞゝのところまで追つきました。
 自動車は遊廓の門をはひつて、銀糸楼の前でとまりました。松華はつかゝゝと中へはひつて行きました。僕は致し方がないので、街角に立つて様子をうかゞひました。自動車は引きかへして行きましたが、多分、その自動車の運転手にでも聞いたのでせう。程なく、先刻の肥つた男が、今一人のちがつた男と、銀糸楼へはひりました。
 それから、僕は銀糸楼へ出入りする客や女に一々眼をとめて居りますと、何十分過ぎたか知れませんが、一人の様子の変つた若い女が走り出て来ました。その女を見て僕はまつたくびつくりしました。それが外ならぬ富子さんでした。逃してはならぬと僕は富子さんのあとをつけましたが、富子さんは時折あとを不安気に振りかへつて、たうとう遊廓の門を出ました。
 僕は黙つて富子さんのあとをつけようかとも思ひましたが、どんな邪魔がはいらぬとも限らぬと思つて、いきなり、富子さんに近よつて声をかけました。
 富子さんは驚いて振りかへりました。僕はそこで、卒直に中沢さんが、今、あるところに、うちの先生のために監禁されて居るから、中沢さんを助けに行く気はないかと言ひました。富子さんは暫らく考へて居ましたが、案外にもすぐ、「えゝ、行きませう」といひました。
 そこで僕は、自転車を見知りの店に預けて、富子さんの命令で自動車をやとひ、こゝへやつて来ました。
 こゝへ着くなり僕は御気の毒ではあつたが、富子さんを麻縄でしばつて、表ての家の柱にしばりつけて置きました。さうしてこの通り御注進に及んだのです。」
 殿山医師は書生が語るなり満足げにうなづいた。さうして、先刻から書生の話を、いはゞ夢心地できいて居た保をかへりみて言つた。
「ふゝゝゝ、おい中沢! 貴様はよつぽど幸福な奴だよ! 富子がこゝへ来た御蔭で、十分か二十分生命がのびたのだからな! こんど俺が顔を出すまでに、十ぶん死の恐怖を味はつて置くがよい。」
 かう言ひ捨てゝ殿山医師は、書生を促しつゝ、富子に逢ふべく、襖の外に出で、手荒く襖をしめた。やがて、二人の跫音は廊下らしいところをだんゞゝむかうへ遠ざかつて行つた。
 再び保は、村井氏に酷似した男の死体と、二人きりうすぐらい電燈に照された汚い室に取り残された。間ちがひなき死の運命に差し迫まられながらも、保は医師の姿を見ぬことに、一種の心安さを感じた。後ろにしばられた両腕はすつかり麻痺してしまつたが、身体の痛みはだんゞゝ重つて行つた。
 彼は先刻から自分の死ぬことを覚悟したものゝ、富子が殿山の手中に落ちて苦しむことは、考へるさへ堪へられなかつた。富子は恐らく、自分を助けようとして、これ程の危険に接するとは夢にも思はないで、死地に乗りこんで来たのであらう。今しがた殿山の語つた絶望的の言葉から察すると、殿山は或は富子をも生かして置かないかも知れない。
 かう思ふと、彼はじつとしては居られないやうな気になつた。けれども、今の彼は全然無力であつた。彼の前に横はつて居る死体と同じく、我と我身を処置することが出来なかつた。一時間ほど前には臀部を軸として廻転することが叶つたのに、今はそれさへも不可能となつた。
 彼の膝のそばには、薬液を充した注射器が横はつて居た。殿山の言葉が真であるならば、その液は硫酸であるから、若しその薬液に、自分をしばつた麻縄を触れしめたならば容易に縄をとかし切ることが出来る筈である。けれども今の彼にはその薬液を利用する術がなかつた。いはゞ救ひの手を眼の前に見ながら、こちらから救はれるべき手出しをすることのできぬ苦境にあつた。
 彼は身動きこそしなかつたが、全身の筋肉は、その位置のまゝで活動して、汗がびつしより流れ出た。一分、二分、三分。時間は容赦なく経つて、今にも殿山が帰つて来さうであつた。帰つて来たが最後、自分はこの世に別れを告げなければならない。
 彼は思はず耳をすました。けれども、これといふ変つた物音をきくことが出来なかつた。木の葉が風に吹かれるかと思ふやうな、支那人の所謂「秋声」といつたやうなものが聞えたけれども、それは、彼の聴器の錯覚であるかも知れなかつた。然し、恐らく戸外には、美はしい月光が万物を照して居ることであらう…………。
 かう思つたとき、突然一匹のこほろぎが啼き出した。その声は、ちやうど、自分の坐つて居る真下に起つた。それを聞くと、彼は、一昨夜模擬葬式の後で、富子の捜索に、村井家の奥庭に出たことを思ひ出した。それからなほ遡つて、その前日富子と共に鶴舞公園を散歩したことを思つた。
 あの時、自分は、押毛に対して、全く取りかへしのつかぬ偏見を持つて居た。若し自分がもつと冷静に世の中を観察して居たならば、自分もこの悲しい運命に逢はずにすんだであらうし、又、富子をも苦しませずにすんだかも知れない。法医学教室で小窪教授から、脅迫状に注意せよと言はれたとき、自分にはそれを反省する余裕さへなかつた。ところが今になつて考へて見れば、押毛はどうやら自分の味方であるらしい。今しがた書生の語つたところによると、富子は中村遊廓の銀糸楼に居たといふのであるから、恐らくそれは押毛の指図に依つたものであらう。ことに、一昨夜、押毛が笹島停車場前の自働電話から下宿に電話をかけたことを考へると、押毛は富子と所在を共にして居たにちがひない。
 若しさうとすれば、富子は、今夜何故、ひとりで銀糸楼を出たのであらう。押毛は何故、富子をひとりで歩かしめたであらう。松華は恐らく押毛の手先をつとめて居るであらうが、その松華が如何なる報告を齎らしたであらうか。又松華のあとからついて行つた男たち、それは多分、門前署の鹿島刑事の一行であらうが、彼等は何事を富子に語つたであらうか。
 讀者諸君のすでに知つて居られることも、保はまだ知らないのである。彼は富子の行動をうらめしく思つた。押毛は多分殿山医師の毒牙から、富子を保護するつもりであつたらうに、今、富子が殿山の手中に落ちては、折角の計画も水の泡である。押毛は富子が殿山の手中に落ちたことを果して知つて居るであらうか。それともまつたく知らないであらうか。
 殿山の言葉によると、この家は誰にも容易に發見されないものであるらしい。して見れば、自分と富子は、永久に救はれる道を絶たれたといはねばならない。
 自分たちは二人とも殺されるかも知れない。或は、富子だけ助けられるかも知れない。然し、自分が殺されることは、最早たゞ時間の問題である。かう思ふと、保は、富子を殿山の手に渡すのが如何にも惜かつた。富子の心は完全に自分のものである。それだのに自分が殺され、富子が暴力によつて殿山のものになるかと思ふと、かへすゞゝゝも残念でならなかつた。しかも、自分たちの結婚には、村井氏もその遺言状の中に書きこむほど同情してくれたではないか。
 村井氏は恐らく、自分と富子との結婚に同情した結果、殿山のために殺されたのであらう。殿山が先刻語つた村井氏の過去が果して事実かどうかはもとよりわからないけれど、仮にそれにちかい事実があるとしたら、殿山は村井氏を脅迫し、村井氏はそのために模擬葬式を行つて、一時姿をかくすことにしたのであらう。而も殿山はその裏を掻いて村井氏を毒殺したのだ。彼は先刻、村井氏を殺したのは自分でないと断言したけれど、どうして彼の言葉が信じられよう。
 さうだ。殿山は村井氏を殺し、次で自分を殺して富子を奪はうとするのだ。かう思ふと、保ははじめて、殿山に対して、今までとはちがつた絶望的な憎悪を感じた。富子の行方の知れないうちは、彼は自分の運命を肯定しようとしたが、今や、富子がみすゝゝ、殿山の手中に落ちたと知つては、彼はどうしても運命に反抗せざるを得なくなつた。彼は殿山を殺したく思つた。本当に殿山を殺したく思つた。こんど殿山が顔を出したら、及ばぬながらも、死力を尽して飽く迄抵抗し、運命の裁断に任せよう…………。
 ふと、こほろぎが鳴きやんだので、保は我にかへつた。殿山が去つてから凡そ何分ほど過ぎたらう、正確にはわからなかつたが、二十分以上過ぎたやうに思つた。彼は耳を澄した。が、附近には人声がしなかつた。彼は自分が何処に居るかを必死に知りたく思つた。同じく死ぬにしても、せめて死んで行く場所だけ知つて置きたいと思つた。
 その時、遠くで犬の鳴くやうな声が聞えた。無論市中とは思はれなかつた。或は郊外の百姓家ではあるまいかと彼は思つた。部屋の外にある廊下らしい板のきしみは、縁側か、又は、離れ座敷へ通ふ渡りの縁であるかも知れない。ことによると、此処はある家の離れ座敷かも知れない…………
 時間は遠慮なく過ぎた。然し、殿山も書生もあらはれなかつた。彼等は何をして居るのであらう。富子はどうしたのであらう。保は、このいはゞ蛇の生殺しの状態に嫌悪を感じはじめた。彼は早く一か八か片がついてくれゝばよいがと思つた。彼はもうこの苦しいサスペンシヨンに堪へ切れなくなつたのである。
 突然! 廊下に跫音が聞えた。人の走る音である。而も二人ではなくて一人である。保ははツと緊張した。愈々カタストロフイーが近よつたと思つた。
 跫音は部屋の前でとまつた、次で襖があいた。
「中沢さん!」
 癇高い声を響かせて保のそばにかけよつたのは、読者諸君よ……………………。


 第二十章 対面


 それは本能の作用といふべきものであるかも知れない。或は反射作用と名づくべきものであるかも知れない。
 富子の姿を見た保は、思はずも自分の身体を傾けて、富子に死体を見せまいとした。然し、本能の作用は富子にも働いた。彼女はあたりをふりかへるひまもなく、保の後にまはつて、手早く、無言で、麻縄を解きにかゝつた。
「殿山は、殿山はどうしました?」
 かう言つた保の声は嗄れて居た。
 富子は、麻縄を解く手をやめて、持つて来たガラス罎の栓をぬいて、保の唇にあてがつた。
「水です。御飲みなさい。」
 保は、むさぼるやうにして、ごくりゞゝゝ音をたてゝ飲んだ。
「殿山さんはもう来ません。みんな小窪先生の御蔭よ。」
「えゝ? 小窪先生?」と、保は、甦つた声をしぼつてたづねた。
「さうよ。小窪先生が私たちを救つて下さつたのです。」
 言ひながら、富子は保の縄を解いてしまつた。保は身体が自由になるなり、死体にかぶせてあつた白布を引つぱつて、さらけ出されて居た頭を蔽つた。
「それが、父の死体の贋物ですか?」と、富子は平気な顔をしてたづねた。
 保は拍子抜けがした。「それを知つて居るのですか。」
「えゝ、今、小窪先生からきゝましたわ。」と、答へてから、富子は畳の上に転つて居る注射器に眼をそゝいで言つた。「まあ殿山さんはこれをあなたに注射しようとしたのですか。」
「さうです。これは硫酸ださうです。殿山はこれで僕を殺さうとしたのです。まさに注射しようとしたところへ、書生が来て、あなたを連れて来たといつたものだから、一時中止して出て行つたのです。書生の来ようがもう少し遅かつたら、僕は死んで居たにちがひありません。いはゞ僕は富子さんに救はれたやうなものです。それにしても殿山と書生はどうしましたか。」
「いま、あちらの家で、小窪先生に麻酔剤をかゞされて二人とも死んだやうになつて居ますわ。小窪先生は二人を警察へ運ぶ手順をしに行かれましたのよ。」
「二人を捨てゝ置いても大丈夫ですか。」と、保は不安気にたづねた。
「大丈夫ですとも。強い薬剤ださうですから、中々、覚めないのださうです。でも、それくらゐの目にあふのは当然ですわ。殿山さんは父を毒殺したのですもの。」
「え? 富子さんもさう思ひますか。」
「だつて、さうではなくつて。」
「然し、先刻、僕が、愈々死ぬ段になつて、本当のことを言へといつたら、お父さんを殺したのは俺でないと言ひ切りましたよ。」
「そんなことは当になりませんわ。あなたと私が結婚すると知つて、憤慨のあまり、父を殺したにちがひないですわ。さうして、あなたも一しよに殺さうとしたのですわ。でなくつて、あなたをこんな目に逢はせる筈がありませんわ。」
「無論僕も殿山の言葉は信じません。然し、僕が監禁されたのは、僕があなたの行先を知つて居りながら、知らぬ振りをして居るのだと思つたからです。といふのは、あなたが、お母さんの蒲団の下へ置いて行つた手紙を殿山が横取りして居たのです。」
 富子はこれをきいて眼をまるくした。「あーら、あれを母は見ませんでしたの。それでは母がどんなに心配したか知れませんわ。まあ…………」
「それにしても、あの手紙の中に、あなたの行先を僕が知つて居るやうに書いてあつたのはどういふ訳ですか。」
「本当にねえ。」と、富子は軽く太息をついて言つた。「あなたにもとんだ心配をかけて御気の毒でしたわ。実はかういふ訳なのよ。」
 それから、富子は一昨夜以来の行動を語つた。それは大たい次のやうであつた。
 模擬葬式の始まる一時間ほど前に、富子は離座敷の廊下で、ふと殿山医師に逢つた。その時殿山医師は彼女に向つて、今夜、葬式のあとで、あなたと私との結婚披露があるが、多分あなたももう知つて居るでせうと言つた。あまりの意外に富子はわが耳を疑ひ、一時呆然としたが、多分殿山が冗談を言つて居るのだらうと思つて、そのことを語ると、殿山は病室の隣りの室へ富子を連れこんで、村井氏から殿山に宛てた例の手紙を示した。
 富子は千仭の谷へ突き落されたやうな気になつたが、とにも角にもその場を取り繕つて、庭へ出て父の真意を考へようとした。然し、考へをまとめる前に、父のあまりにも自分を出し抜いた行為に腹が立つて、くやしさに涙がとめ度なく流れた。
 けれども、父があのやうな手紙を書くには何か深い理由がなくてはならない。といつて、模擬葬式の時間も迫つて居るから、父にきゝたゞして居る隙がない。そこで富子は、中沢と二人で旅行して、一時姿をかくしたならば、その間に、何とか解決がつくかも知れぬと思つて、自分の居間に行き、二本の手紙を書いたのである。その一本は中沢宛の手紙であつて、
「この手紙を見次第、名古屋停車場に来て下さい。」といふ意味のことを書き、その時まだ中沢が来て居なかつたから、女中のお竹に事情を話して、中沢に渡してもらふことにし、もう一本は、母に宛てた例の手紙であつた。彼女は、母の病室をたづね、手づから、蒲団の下に、さしはさんで来たのである。
 それから彼女は身支度をし、旅行に必要な金を携へて、名古屋停車場へ来た。そこで彼女は中沢の来るのを待つたが、中沢はいつまでも姿を見せなかつた。うちへ電話をかけて聞いて見る譯にはゆかぬので、じれつたい思ひをしながら待つて居ると、意外にも、押毛がやつて来たので、彼女は逃げやうかと思ふほど驚いたのである。
 ところが驚きはそれのみでなかつた。押毛は即ち彼女に父の頓死を告げたのである。彼女はそれをきいてその場から引き返さうと思つたが、押毛は、今帰つたなら殿山にどんな目に逢ふかも知れぬ。父は多分殿山が殺したにちがひないから、その確証があがつて、殿山が拘引される迄は、決して姿を見せてはならぬといつて、父と殿山とのデリケートな関係を説明したので、富子ははじめて押毛の命に従ふことに決心し、押毛は、二人が潜伏するには遊廓が一ばん適当であると考へ、停車場前の自働電話から聞天館へ電話をかけて、当分のうち帰らぬと告げ、二人はかねて押毛の知り合である銀糸楼に落ついたのである。…………
 こゝまで語つて、富子は一いきついた。
「それでは、あなたが僕へ宛てた手紙は、押毛が横取りしたのですね。」と、保は少しく腹立たしさうに言つた。
「押毛、押毛とあなたは仰しやるけれど、押毛さんは、私たちにとつて一ばん大切な人よ。」と、富子は中沢を制するやうに言つた。「あなたへ宛てた手紙は、お竹がわざと押毛さんに見せたさうですわ。といふのは、お竹も押毛さんも、かねて村井一家のためを思つて、力をあはせて私たちを保護してくれて居たからで、お竹は、私が無謀なことをするといけないと思つて、押毛さんにあの手紙を見せたのです。だから、押毛さんは、時機を見て、私のあとを追かけて来て下さつたのですわ。模擬葬式も、私たちを救ふために、押毛さんと父とで相談してやつたことださうです。」
「えゝ? 僕等を救ふために?」と、保はさすがに驚きの表情をうかべてたづねた。
「さうよ。父はある事情のために、殿山さんと私との婚約を余儀なくされたのです。ところが、あなたと私との恋を見て、父は何とかして、私たち二人を幸福にしてやりたいと考へたのです。恰度そこへ、押毛さんが雇はれて来られたので、父は押毛さんと相談したのです。すると押毛さんはある探偵小説から、ある計画を思ひつき、なほ知り合ひの小窪先生に相談したのです。…………」
「押毛が小窪先生と…………」
「まあ、黙つて御きゝなさい。小窪先生は、特別な木乃伊を製造する術を研究なさつて居るさうですが、押毛さんが、法医学教室をたづねなさつたとき、先生は何でも沢山の生きた姿の木乃伊を蔵してある秘密室に案内なさつたさうです。ところが押毛さんはその木乃伊の中に、偶然にも父と酷似して居る、ある死刑囚の木乃伊を見つけたのださうです。そこで小窪先生にそのことを告げると、先生は、それならば一つ世間を驚かすやうな芝居を打たうではないかといつて、押毛さんと相談して計画を建て、それから押毛さんと父とはその計画に従つて行動したのです。
 先づ遺言状を書いて、父が、「自分は殺されるかも知れぬ」と言ひふらす。それから死亡広告を出す。死亡広告を出して模擬葬式をする。さうして、姿をかくして、父は永久に日本の土地を去り、死刑囚の木乃伊を名古屋のどこかの街に置いて、父が絞殺されたやうに見せかけると、当然死体は法医学教室に運ばれるから、小窪先生が、もつともらしく鑑定し、父が誰に殺されたかは、いはゆる迷宮入りになるやうにするつもりだつたのです。
 模擬葬式の際、どうして巧みに姿をかくすかは、はじめはまだよくきまつて居なかつたさうですが、後に押毛さんが、ある探偵小説を読んで、奇術師を雇ふことにしたのださうです。それから、はじめの計画では、死亡広告は父のだけを出す筈だつたのを、遺言状を作る際に、証人になつてくれた谷村さんと市川さんが、しきりに不景気をなげいて居られたので、押毛さんが、面白半分に死亡広告を出し、そのために、二軒とも店が繁昌するやうになつたさうです。それから又、父は十一月の二十日に模擬葬式をやるつもりだつたのを、谷村さんと市川さんの誕生日が十月四日と十日だつたので、それゞゝその日附で死亡広告を出した関係上、早い方がよいと思つて、一月繰り上げたのです。
 かういふ手数のかゝることをしてまでも、父は、私たち二人を結婚させようとしたのです。父が死んでしまへば、殿山さんももはや何ともすることが出来ません。ことに、遺言状に書いてあるのですから、私たちは立派に結婚が出来ます。父は勿論死んだ体になつて居て、その実外国で生活して、二度と再び日本へ帰らぬつもりだつたさうで、父の外国の生活については、押毛さんに適当な計画があつたのです。いふ迄もなく、父は、母も、私も、あなたも、その他世間一般の人をもあざむくつもりで、たゞ父の計画を知つて居るのは、押毛さんと、小窪先生の二人きりだつたのです。お竹にはある程度までは知らせてあつたらしいですが、無論お竹はくはしいことは知りません。
 ところが、父のこの計画は、いざといふ時に、めちやゝゝゝに毀されてしまつたのです。さうして、一ぱいくはせてやらうとした相手に、かへつて一ぱいくはされてかはいさうに殺されてしまつたのです。」
 富子はこゝまで語つて、ほろりとして再び太息をついた。保は、村井氏の計画をきいて、驚駭と感謝の念に襲はれ、それと同時に殿山に対する憎悪の念が培加した。
 それにしても、小窪教授が、計画の首脳者であることは、保にとつて全く意外なことであつた。さうして、今朝、何喰はぬ顔をして自分に向つて種々説明して居た姿を思ひ出し、彼は一種の微笑をさへ心に浮べた。
「それでは、この死体が、その死刑囚の木乃伊なのですね?」と、保は戸板の上の死体を指した。
「さうよ。たつた今、きいたことですが、小窪先生は、父が死んだといふことをきいて非常に驚き、それから父の死体が教室に運ばれたとき、毒殺されたことを一目で鑑定して、必ず殿山さんが殺したにちがひないと思はれたさうです。模擬葬式の場で、丸薬のケースが紛失したことをきいて、それも殿山さんの仕業であらうと思ひ、ことによると法医学教室へ死体を盗みに来るかも知れんと考へ、死体の替玉を出して置いて教室に居られたさうです。すると果して、盗み出しに来たので、そのあとをつけ、このうちを見届けて帰られたのです。今日の午後、お竹から銀糸楼へ電話がかゝつて、教室の死体の紛失のことや母の容態が悪くなつたことや、あなたが、殿山さんと一しよに出たきり帰らないことなどを押毛さんに知らせて来たので、押毛さんは、私が心配すると思つて私にはそれを告げないで、先づ小窪先生のところへ相談に行かれたのです。そこで小窪先生は、あなたが、贋の死体と一しよのところに監禁してあるにちがひないと思つて、押毛さんと二人でこの家の附近をうかゞひに来られたのです。」
「え、二人で?」と、保は遮つた。
「さうよ。すると、はからずも私が書生に連れこまれるのを御覧になつたのです。私は、銀糸楼で鹿島さんから、母の容態の悪くなつたことと、あなたが殿山さんに連れ出された事をきいて、じつとして居られず、隙をうかゞつてしのび出したのです。ところが、途中で殿山医院の書生によびかけられたので、兎に角、一しよに行けばあなたを助ける手段もあるだらうと思つてついて来ました。けれど、それはやつぱり、私の軽はづみでした。この家へはいるなり、私は書生のために、難なく猿轡をかまされ、しばられてしまひました。
 私はどうなることかと心配しましたが、その心配は長く続かなかつたのです。私は小窪先生と押毛さんに助けられました。それから三人で書生の出て来るのを待つて居ますと、殿山さんも一しよに来ました。二人はそれゞゝ、小窪先生と押毛さんに麻酔剤をかゞされて脆くも正気を失つたのです。」
「それで、押毛はどうしました。」
「あら又、そんな…………押毛さんと仰しやい。」
「では押毛君といひませう。押毛君は、いまどこに居ますか。」
「この住人のないうちが一たい誰の所有かを聞きに行つて下さつたのです。こゝは瑞穂町の田舎で、このうちは百姓家で、この部屋は小さな離れ座敷です。今に帰つて来られるでせう。」
「一たい押毛君は、どうしてそんなに僕たちのために力を入れてくれるのですか?」と、保は暫らく考へてから言つた。
「あなたもそれに気がついて? それには立派な理由があるのよ。」
「え? どんな?」
 富子は、懐に手を入れたが、やがて一葉の写真を取り出した。
「この人をあなたは御存じ?」
 かう言つて富子がそれを保の前に差出すと、保は一目見て叫んだ。
「どうして、これが? これは僕の死んだ父の若い時の写真です。誰から貰つたのです。」と、保は息づかひをはげしくして言つた。
「押毛さんよ。」
「え、押、押毛君が?」
「さうよ。押毛さんは、あなたの兄さんです!」
 あまりの意外な言葉に、保は、しばらく、物をも言はず富子の顔を見つめた。
「驚きになるのも無理ないわ。私も押毛さんからそれをきいたとき、本当だと思へなかつたわ。実の兄さんに対して、たとひ知らぬとはいひ乍らあなたはあんなにも敵意を持つてゐらつしやつたのですもの。私は銀糸楼で、あなたのアメリカでの生活の模様を、押毛さんから委しくきゝましたわ。あなたが、自分の過去を話したくないと仰しやつた理由もよくわかりましたわ。今更こゝで、私も口にはしませんわ。あなたが不愉快な生活をきらつて日本へ逃げて来なすつた御心持ちには同情しますわ。けれども、あなたは、あなたを蔭ながら愛して居る兄さんのあることをちつとも御承知なかつたのです。兄さんは、あなたを、もう一度アメリカへ連れかへらうとして、はるゞゝ日本へたづねて来られたのです。さうして、運よく、あなたの居所を見つけ、父に事情を話して会社に住みこみ、蔭ながらあなたの様子を見張つて居られたのです。ところがあなたと私との恋を知つて、兄さんはあなたをアメリカへ連れかへることを断念されました。さうして何とかして、私たち二人が結婚するやうに努力して下さつたのです。あなたが、押毛さんに敵意をいだいて居ることを知つて、押毛さんは却つて、事を運ぶに好都合だと思つて居られたのです。…………」
 保は、思ひもよらぬ富子の話に、全く呆然としてしまつた。若し、語り手が富子でなかつたならば、彼はこの話を全然信用しなかつたかも知れない。
「僕に兄が一人あることは知つて居ました。然し、兄はとつくに死んだと思つて居ました。」と、保は、なほも半信半疑の顔つきで言つた。
「無理もないわ。兄さんは小さい時、アメリカ西部の生家を出なすつたさうです。それから東部へ行き、ある大学で勉強なさつたのですが、その時に、小窪先生と知り合ひになられ、その縁故で、名古屋へ来てからも、よく、小窪先生の御宅を御たづねになつたのです。」
「押毛といふのが本名でせうか?」
「いゝえ、本名はやはり中沢といふのださうですわ。ジロム・ナカサワといつて居らしつたのを、日本へ来て、東京の遊里へお行きになつたとき、その髭の美しいところから、女どもが、「おしげさん。」と呼んだので、そのまゝ「押毛治六」といふ名になつたさうです。」
 保は兄弟をもつた経験がないので、押毛が兄だとわかつても、兄に対するやうな親しみを持つことが出来なかつた。で、話題をかへた。
「それで、小窪先生も、やはりお父さんを殺したのが殿山だと思つて居られるでせうか。」
「殿山さんが死体を盗みに来た以上、先づさう考へるのが至当だと言つて居られましたわ。尤も、殿山さんが丸薬のケースをかくしたとは思へぬとも言つてゐらつしやつたけれど…………」
「先刻殿山が僕に語つたところによると、丸薬のケースを盗んだのは、殿山ではないらしいのです。それから、殿山はあなたを見つけ出すまで、自分に嫌疑がかゝると面倒だから、一時死体を盗み出したのだと言つて居ました。はじめ殿山は、僕がお父さんを殺して殿山に嫌疑をかけるやうにしたのだらうとも言つて居りました。」
「まあ…………」
「何でも殿山は、お父さんに非常な復讐心をいだき、お父さんが不慮の死に逢はれたので一層、お父さんをにくみ、お父さんの死体に侮辱を与へようとした形跡も見られるのです。ところが、死体が違つて居たので、まつたくびつくりして、そのため、まるで発狂したやうになり、僕を殺すばかりでなく、あなたをも見つけ次第に殺すと言つて居りました。」
「何といふ恐ろしい人でせう。」
「たしかに殿山は常軌を逸して居ます。僕は彼が精神病者ではないかと思ひました。殿山はお父さんの過去のことを語つてお父さんが殿山の父を毒殺したといふやうなことまで話しましたが、僕にはどうも信ぜられませんでした。」
「そのことまで、あなたに御話しましたの? 私は押毛さんから、殿山さんが父を脅迫して居た事情をきいて、父がどんなにか苦しんだらうと、本当に父がかはいさうになりましたわ。父は押毛さんにだけ、過去の秘密を一切物語つたさうです。父は、ある悪漢の手から母を救つたのです。それは母の前の良人で、その人は手のつけられない乱暴者で、後には酒のために精神に異常を呈し、母を無暗に虐待したので父は見るに見かねて、殿山さんのお父さんと相談して、人工的に死なせたのださうです。それから、母とその子供たちとを父が養つてやつたのですが、子供たちも、父の血をうけたと見え、母を置き去りにして逃げてしまつたさうです。で、父は母を家へ引取つたのですが、後に、親戚から、孤児となつた私をもらつて、二人の子として育てゝくれたさうです。私が義理ある仲だといふことは、押毛さんの口からはじめてきゝました。さうとは知らず、これまで、父や母に我まゝばかり言つて、本当にすまぬと思ひますわ。」
 保は富子の身の上話をきいて、何といつてよいかに迷つた。富子は語りつゞけた。
「ね。さういふ訳ですから、あながち父が、母の前の良人を悪意をもつて殺したとはいへないと思ひますわ。けれども、父は自分の行為に責任を感じ、永久に日本を去らうとしました。年をたべてから、さういふ決心をするのはよくゝゝのことゝ思ひますわ。たゞうらめしいのは、殿山さんのお父さんが当時のことを日記に書いて置かれたことです。その日記さへなければ、父は苦しまなくて済んだのですもの。殿山さんは父が殿山さんのお父さんを毒殺したやうに思つて居られたさうですけれど、それは全くの冤罪ですわ。殿山さんの御父さんは、病気で頓死されたのださうです。けれども、その日記がある以上、父はそれに反抗することが出来ないので、殿山さんの要求どほり、私を殿山さんに結婚させる内約を結んだのださうです。父は死んでしまひましたから、もうその日記は殿山さんに何の役にも立ちませんけれど、押毛さんは、松華さんを頼んで、あなたの行方をさがしかたゞゝ、今日、殿山医院へ、その日記を奪ひにつかはされたのです。松華さんが熱心にさがした結果、幸ひに見つかつて、日記はこつちのものになりました。でも、今になつてはもう遅いです。たゞ父の霊を、それで幾分なりとも慰め得るかも知れません。」
「いや、かへすゞゝゝも殘念なことです。」と、保はしんみりした口調で言つた。
「母もきつとそれについて苦労したにちがひありませんわ。今回のことは母に内密ださうですけれど、母はある程度まで感附いて居たと思ひますわ。」
「お母さんは僕が昨日たづねたとき、全く何事も知られないやうでした。でも、何だか殊更に心配して居られたやうです。それがために病気が重つたのかも知れません。」
「いま、小窪先生からきゝましたら、多分教室の助手の肥後さんが看護に行つてくれて居るだらうと仰しやつたので、かうしてあなたと御話もして居られるのです。でも、これからすぐ母を見舞つてやりませう。」
 保は無言のまゝ立ち上らうとした。さうしてひよろゝゝゝと富子の方によろけかゝつた。富子はしつかりと保を抱いた。
「まあ暫らく待つて下さい。今に押毛さんが迎ひに来て下さる筈ですから。ことによると殿山さんと書生とは、もう警察の方へ運ばれて居るかも知れませんわ。」
「それでは僕は小窪先生には逢へないのですか。」
「先生は、あなたに逢はぬ方がよいと言つて見えましたわ。」
 この時、縁を歩いてくるどつしりした跫音が聞えた。
「押毛さんなのよ。」と、富子は言ひ乍ら、保とはなれて坐つた。
 跫音は襖のむかう側でとまつた。軽く襖をノツクする音がした。富子は言つた。
「押毛さん? 御はいりなさい。もう何もかも中沢さんに話しましたわ。」
 襖をあけた男の顔を見て、保は怪訝な顔をした。
「押毛さんが、おしげをお剃りになつたのですよ。」と、富子は説明した。
 兄弟はたゞ目礼をかはすのみで、無言のまゝにこりとして顔を見合つた。然しそれだけで十分であつた。首尾よく兄弟の対面はすんだのである。
「押毛さん、このうちが誰のだかわかりましたか?」と、富子は好奇心をもつてたづねた。
「中年の夫婦が住つて居て、あき家ではないのですが、殿山に金でも貰つたのか、二三日わざと留守にして、殿山に使はせて居るらしいのです。然し、この家が、あなたのお宅とある関係をもつて居ることをきいて、全く驚きましたよ。」
「え? それはどんな関係です?」と、富子は好奇の眼をかゞやかせた。
「実はこの家はお宅の女中のお霜さんの生家なのです。」
「まあ、お霜の?…………」
 三人は思はず意味あり気に顔を見合せた。


 第二十一章 臨終


 話変つて、銀糸楼から、村井家に居る肥後君に電話をかけた鹿島刑事は、富子が帰宅しないと知つて、松華及び下出刑事を銀糸楼に残して、一先づ自分は門前署にかへることにした。
 署にかへると間もなく、小窪教授から、電話がかゝつて、殿山と書生の発見された顛末を告げられ、麻酔にかゝつた二人を迎へに来てくれと言ふことだつたので、直ちに部下のものに命じて、その手筈をきめ、連れて来た後の処置をも、委しく語つて、自分は、村井家をたづねることにした。といふのは、教授からの電話によつて、押毛、中沢、富子の三人が、程なく村井家にかへるといふことを知つたからである。
 ベルを押すと、女中のお霜が迎へに出た。彼女は何となく落つかぬ様子をして、おづゝゝしながら、鹿島刑事を応接室に案内した。
「肥後といふ人が今病室においでになるだらう?」と、刑事は椅子に腰をおろしながら言つた。
「はい。」
「鹿島が来たから、一寸御手すきに応接室へ来て下さるやう、告げてください。」
 お霜は腰をかゞめて出て行つた。
 鹿島刑事は、肥後君の来るのを待ちながら、今回の事件もだんゞゝ終りに近づいたことを知つた。殿山と書生が麻酔から醒めたとき、彼等を訊問すれば、大凡そ村井氏を毒殺したのが誰であるかを知ることが出来るであらうと思つた。然し刑事は殿山自身が犯人であると推定するにはまだ早いと思つた。小窪教授の言葉のとほり、探索の範囲は限られてゐるから、その範囲をみな明かにしなければ結論は下せないと思つた。さうして模擬葬式の当夜から、今日までに、自分が探偵し得た材料だけでは、結論を下すに十分でないと思つた。
 それにしても小窪教授は何といふ皮肉な人であらう。死体而も贋の死体の行方をちやんと知つて居りながら、それを語らないで、自分たち三人に解決をまかせるとは何といふ意地の悪い人であらう? それとも教授は何かある目的があつて、わざとさういふことをしたのであらうか。
 こゝまで考へたとき肥後君が顔を出した。
「如何です。奥さんは?」と、刑事はたづねた。
 肥後君は顔を曇らせたが、何だかひどく興奮して居るやうであつた。
「いけません、非常に心臓が弱つて来ましたので、今、看護婦に十分毎にカンフル注射をやらせて居ります。」
「それはいけませんなあ。」
「頻りに富子さんに逢ひたがつて居られるのです。尤も意識が完全に明瞭ではありませんけれど。」
「富子さんはいまに、中沢さんと一しよに来ることになつて居ります。」
「えゝ?」と、肥後君は驚いた。「それは本当ですか。富子さんはどこに居ましたか。」
「富子さんも中沢さんも、村井さんの死体のかくしてあるところで、殿山医師のために監禁されて居たのですが、それを小窪先生と押毛とに助けられたのです。」
「えゝ? 小窪先生が? それでは先生は死体の行先を知つて居られたのですか?」
「而も、それは村井さんに酷似した贋の死体だつたのです。小窪先生がわざとすり替へて置かれたのださうです。電話でそのことをきいたとき、わたしは狐にばかされたやうな気がしました。」
「なーんだ。それぢや、小窪先生は殿山医師が盗みに来ることを知つて居られたのですね?」
「さあ、委しいことは聞けませんでしたが、今に皆さんが来られゝばわかるでせう。時に何か変つたことはありませんですか。」
「実は妙なものを病室で発見したのです。」と肥後君は更に興奮状態を高めて言ひながら、ポケツトからあるものを取り出した。
「やツ、それは問題の丸薬のケースぢやありませんか。」と、鹿島刑事もさすがに声を緊張せしめた。
「殿山医院のはり紙がしてありますから多分さうだらうと思ひますが、僕ははじめて見たのですから、断言出来ません。」
「わたしも勿論はじめて見るのですが、きつとさうにちがひありませんよ。」かういつて、ケースの蓋をとつて、内容を検査した。「一たいこれが何処にありましたか。」
「奥さんの敷蒲団の間にはさまつて居りました。」
「え? 敷蒲団の間に?」
「実は、僕は、かねてから、譫言の分析について少しばかり研究して居りますが、先刻、奥さんのそばで、奥さんの仰しやる譫言をきいて居ましたから、奥さんの心はある一つのものにたえず向いて行くのです。仰しやる言葉はちがひますけれど、その意味を綜合して見ますと、一つの丸い形をした紙で作つた箱といふ結論になるのです。而も譫言から、それが奥さんの敷蒲団の下に置かれてあることを知りましたので、ひそかに手をやつて見ますと、ちやうど、腰の下のところに、これがあつたのです。まことにすまぬことをしたとは思ひましたが、幸ひに奥さんはそれを御気づきになりませんでした。又それを御気附きになることの出来ぬくらゐの重態です。そこで僕は、兎も角、これを預からせてもらふことにしました。いや、これを僕のポケツトの中に入れた時、探偵といふことがつくゞゝ厭になりました。探偵小説で読むとき、探偵が証拠を発見するのは痛快ですが、どうしてゝゝゝゝ、実際には、痛快どころか、普通の神経の持主では堪へられぬことだと思ひました。尤も、このケースが仮りに模擬葬式の場から紛失したものであるとしても、奥さん自身が蒲団の下へ入れられたのではなく、誰か他の者が入れたにちがひありません。然し、奥さんはそのことをよく御承知なのです。だからたえずそれが気になつて譫言に仰しやつたのです。さうして、このケースを奥さんの蒲団の下に入れたものこそ、真犯人であるにちがひありません。」
「仰しやるとほりですなあ。この丸薬の中に青酸の丸薬がまじつて居ることがわかれば、一も二もありませんなあ。然し、見たところでは、同じ形のやうですなあ。とに角、富子さんが見えたら、早速たづねることにしませう。」
 程なく、玄関の方にどやゞゝと跫音がして、ベルが鳴らされ、それから、富子を先頭に、押毛と中沢とがはいつて来た。肥後君も鹿島刑事も、富子と押毛とには、はじめて逢ふのであつて、鹿島刑事は、写真で見たとはちがふ押毛の顔を物珍らしさうにながめ、肥後君は、押毛が教授室にある写真の顔とそつくりであることを知つた。
 一とほり紹介がすむと、富子は肥後君に向つて夫人の容態をたづねたが、肥後君は、今、カンフル注射が多少効を奏して比較的平静に眠つて居られるから、こんど眼ざめられるまで待つたがよからうと言つたので、富子も同じく椅子に腰かけた。
 中沢は刑事と肥後君に向つて、簡単に事情を述べた。それによつて、肥後君も刑事も、やはり、嫌疑は殿山に一ばん濃厚にかけるべきであるやうに思つた。
 やがて肥後君は、夫人の敷蒲団の下から取り出した例のケースを富子に見せた。
「まあ、これは父が死ぬまで持つて居たケースですわ。どこにありましたの?」と富子は息をこらして肥後君の返答を待つた。
 肥後君はその発見の顛末を簡単に物語つた。
「勿論、母が殺すわけはありませんから、誰かゞ母の蒲団の下に入れたにちがひありませんわ。さうして、それはやつぱり殿山さんだと思ひますわ。」
 この時、押毛は急に眼を輝かせたが、用心深くあたりを見まはし、低声になつて言つた。
「実は鹿島さん、中沢君と富子さんの監禁されて居たうちが、女中のお霜の生家なのです。」
「ほう。」と刑事は異様な叫び声を出した。「そりや一応、お霜さんを訊問して置かねばなりません。ことによると殿山医師の手先にでもなつたかも知れませんからなあ。お霜さんは何処に居ますか。」
「呼んで来ませうか。」と、富子は立ち上つた。
 と、この時、女中のお竹があわたゞしくはいつて来た。彼女は富子に挨拶するひまもなく肥後君に向つて言つた。
「奥さまが俄かに衰弱なさいました。看護婦がすぐ呼んで来てくれと申しました、それから、しきりにお嬢さまの名を御呼びになつて居りますから、お嬢さまもすぐ行つてあげて下さいませ。」
 肥後君に従いて、富子と中沢が病室へ行くことになり、鹿島刑事と押毛とは応接室にとゞまつた。
 病室へはいるなり、富子も中沢も、夫人の非常な変り方に驚いた。肥後君は、ヂガレンの注射を行つて脈を診た。さうして、富子の顔を見て、首を軽く横にふりながら非常に重態である旨を目くばせした。
 ヂガレンの注射が効を奏したのか、或は臨終前の小康であるのか、夫人はほどなく、ぽつちり眼をあいた。さうして、あたりを見まはさうとしたが、たゞ額の上の氷嚢が軽く動くだけであつた。
 富子は枕もとに寄つて、顔を近づけた。中沢も反対の側ににじり寄つて、夫人の顔を見つめた。
「お母さま、わたしです、わかりますか?」
 夫人は軽くうなづいた。何か言はうとしたが言へないらしかつた。
 肥後君は、今一筒のヂガレンを注射した。
 程なく夫人の唇に微笑がうかんだ。
「富子!」と、夫人は聞えるか聞えぬくらゐの声を出した。
「御母さん、安心して下さい、私も中沢さんも無事で帰りましたから、そちらに中沢さんが来て見えます。」
 夫人は眼を中沢の方に動かした。然し、何とも言はずに再び富子の方をむいた。
「富子! 今日まで言はなかつたが……お前はわたしの実の子ではない。」
「お母さん、そのことなら、もう押毛さんからきいて知つて居ります。さうとは知らずお母さんに御厄介ばかりかけて、相すみません。」
 夫人はうなづいて眼をつぶつたが、再び眼をあいて、みんなに外へ出てほしいといふ様子をした。
 看護婦もお竹も、肥後君も中沢も、静かに病室の外へ出て、富子ひとりが枕もとに残つた。
 皆が立退いたと知るなり、夫人は富子をしみゞゝとながめて言つた。
「わたしはもう長くはない、お父さんがなくなり、わたしが死んで、お前も寂しいだらうが、…………」
「そんなことはありません。しつかりして下さい。」
 夫人はかるく頭を横にふつた。
「もういけない。富子、かんにんしてくれ!」
「え? 何故そんなことを…………」
「お父さんは殺されなさつた。」
 富子はうなづいた。
「その犯人は…………」
「その犯人をお母さんは御承知ですか。」
 夫人はうなづいた。さうしてにつこり笑つた。
「お父さんを殺したのは…………この…………わたしだよ…………」
 はつと思つて、富子が母の顔を見ると、それは、それはまさしく死の顔であつた。(次号完結)



『疑問の黒枠』犯人捜索規定!!

「疑問の黒枠」は愈八月号を以つて結末を告げます。これに懸賞を附す事は大分以前より発表して置いたが茲に詳細な規定を発表しますから、熟読の上振つて御応募下さい。

規  定
応答条件 (イ)犯人の名前
     (ロ)共犯者の有無
     (ハ)共犯者ある時はその名前
     (ニ)推定理由
用  紙 原稿紙三枚以上五枚以内
受附期間 六月七日より同二十五日迄(それより以前以後は無効とす)
発  表 疑問の黒枠最終回発表と同時
賞  金 五円宛二十名

 

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底本:「新青年」昭和2年7月号