「疑問の黒枠」(第六回)
小酒井不木
第十六章 教室の怪
読者諸君は恐らく、前章の続きを期待して居られるであらうが、暫らく待つて頂くことにして、筆者は、鹿島刑事と公園の入口で別れた肥後君の行動を記さうと思ふ。
肥後君が、聞天館を出るとき、たゞちに村井家へ行かないで、先づ、法医学教室に立寄らうと決心したのは、押毛の所持した「探偵趣味」に記された犯罪方程式が、妙に肥後君の心をかき乱したからである。鹿島刑事から押毛がそれを殿山医師から伝へきいたかも知れないといふ説を建てたけれども、肥後君にはどうしてもさうとは思へなかつた。だから、この際一刻も早く小窪教授にあつて、教授が押毛と知己であるかどうかをたしかめたく思つたのである。若し、果して自分の想像が的中して居るならば、恐らく村井氏の死に纏る多くの疑問をある程度まで明かにすることが出来るにちがひない。教授は家庭に用のない限り毎晩九時頃までは教室に留まつて居るから、とにも角にも一度教室へ戻つて見よう。かう決心して、肥後君は公園の鉄橋をくゞるなり、道を左手に取つた。
月光に照された鶴舞公園は、肥後君が研究しつゝある「夢」のやうに美しかつた。尤も肥後君は夢の色彩について研究して居るのではなく、犯罪者の夢又は夢と犯罪との関係を検べて居るのであつて、同君は既に学生時代から、夢について色々の文献を読んで居たが、名古屋へ来てからは、小窪教授の慫慂によつて、夢の法医学的価値、夢による探偵、寝言、譫語の分析による犯罪捜査などを主題として研究を進めて来たのである。
夢はある程度まで、夢見る人の心を象徴する。醒めて居る人の言動には虚偽が多いが、夢の世界では、その人の真の心が活躍しようとする。だから夢によつてある程度まで人の心を窺ふことが出来るのである。然し、夢は之を客観的に分析の対象とすることが出来ない。夢を見た本人が語る以外に、その夢の内容を知ることが出来ないからである。而も、覚めて居る人の言葉の眞偽を証拠立てる方法がないのであるから、夢の研究は、一面に於いていはゞ夢の如くはかないものといはねばならない。
然し、醒めて居る人でも、不用意又は無意識に発する言葉の中には、真実が含まれ易い。それと同じく、寝言又は譫言には、その人の心が極めてあらはれ易い。だから、肥後君は、夢の研究を、この方面から進めて行かうと企てたのである。
夢のやうな雰囲気に包まれた公園の木立の蔭を歩きながら、肥後君は、先刻から、犯罪方程式について考へて居た。今回の殺人事件は果して小窪教授の犯罪方程式によつて解決し得るものであらうか。殺人イクオルス犯人の心マイナス被害者の心とは、そも何事を意味するのであるか。今回の事件の何処へどう、この方程式を当てはめるべきであらうか。
肥後君は、地上に投げられたおのが黒影を見つめて進みながら、今回の事件を回顧した。さうして、鹿島刑事と中沢保と自分と三人の捜索の結果を綜合して、事件の二つの焦点を知ることが出来た。その一つの焦点は即ち村井氏が押毛と相謀つて姿をかくさうとしたこと、今一つの焦点は殿山医師が村井氏の死体を奪つたことである。殿山医師が死体を奪つたといふことは、村井氏の死に深い関係を持つて居るものといはねばならない。換言すれば、村井氏は殿山医師に殺されたものと推定して然るべきである。而も一方に於て村井氏は、夫人に向つて、自分は殺されるかも知れぬと告げたといふのであるから、それは当然、殿山医師に殺されることを意味して居たと認むべきであらう。
然し、と肥後君は考へ続けた。この二つの焦点を結びつける連鎖は果して、このやうに簡単なものであらうか。殺されるかも知れぬといふことがわかつて居たならば、殺されることを未然に防ぎ得た筈である。若し殿山医師に殺されることがわかつて居たならば、殿山医師に対して十分警戒し得た筈である。それだのに村井氏は、平気で殿山医師から与へられた動脈硬化予防の丸薬をのんで居たといふではないか。
ところが、村井氏が模擬葬式の場から姿を隠さうとしたことは、殺されないための計画と見れば見られぬこともない。単に人々をアツと言はせるためのジヨークとしては、あまりにも念が入り過ぎて居る。して見ると村井氏を殺した犯人は殿山医師の他にあるだらうか。若し、さうとすれば、殿山医師は、何のために死体を盗んだのであらうか。
「わからない、わからない。」と、肥後君は呟いた。「先刻の捜査の結果、押毛が村井氏を殺したとは、どうしても自分に考へられない。押毛は村井氏の姿をかくす計画の主謀者であるから、むしろ村井氏を庇護すべき立場にあると考へて至当であらう。さうして、押毛が小窪教授を知つて居て、教授が、この計画について相談を受けて居るのであつたら、教授もやはり、村井氏を庇護する立場にあらねばならぬ。教授の性格から見て、それが最も自然な推定であらう。いづれにしても、教授に逢ふことが出来れば、この間の消息は明かになる……」
かう思つて肥後君は歩調を早め、やがて医科大学の正門をくゞつた。
法医学教室は森として居た。どの窓からもあかりが洩れて居なかつたので、肥後君は頗る失望した。
小使室の扉をあけると、宿直の小使が居た。彼は後藤と言つて、木村よりはずつと年が若く、平素物事をはきゝゝ行つた。
「先生は?」と、肥後君がたづねた。
「先刻まで御客さまがありましたが、それから御一緒にお出かけになりました。」
「どんなお客だつた?」
「それが実に珍らしい人でした。」
「え、珍らしいとは?」
「教授室の本棚にある写真を御承知でせう?」
「うむ、あの小窪先生がアメリカで御撮りになつたといふ?」
「さうです、あの中に小窪先生と一しよにうつつて居る人が訪ねて来たのです。」
「へえ、それは本当かい?」と、肥後君は急に好奇心を募らせて言つた。
「本当ですとも、はじめて見たときに、どうも私は、以前どこかで見たことのあるやうな人だと思ひました。でも、すぐさま思ひ出せなかつたのですが、その人が、アメリカから来たものだといつて取次いでくれと言ひましたので、さては、あの写真の中の人だなと思ひつきました。」
「で、名前は何とも言はなかつたかい?」
「えゝ、何とも。」
「小窪先生はその人に逢つて驚いて居られたかい?」と、肥後君はいよゝゝ好奇心に駆られた。
「それが又をかしいですよ。小窪先生は別に珍らしくもない様子をして挨拶して居られました。」
「妙だねえ、どんな話をして居られたか聞いたかい。」
「いゝえ聞きませんよ。小窪先生はすぐドアをしめておしまひになりました。」
「それから、ぢきその人は帰つたかい?」
「いゝえ、二人で研究室に御行きになりました。ですが、肥後先生、今夜は随分をかしな目に逢ひました。」
「何だい?」と肥後君は眼を輝かせた。
「二人が研究室においでになるときに、お茶を持つて行つたのですよ。ところが、二人とも研究室においでにならないので教授室へ行きますと、やつぱりおいでになりません。それから、各室をさがしましたがどこにも姿が見えません。そこで、又々研究室へ行くと、こんどは二人が相向ひあひで話しをして居られました。私は何だか気味が悪くなりました。」
「そりや、お前、手洗にでも行つて居られたのだらう。」
「そんなことは断じてありません。私はきつと、小窪先生が、私たちの知らぬ秘密の室を御持ちになつて居ると思ひます。」
言はれて肥後君は今日の午後のことを思ひ出した。あの時教授はたしかに教室に居られるとわかつて居ながら、どの室にもその姿が見られなかつた。これと今の小使の言葉を考へ合せると、或は後藤の言ふごとく、秘密の室があるのかも知れない。
「僕はこの教室へ来て間もないからわからぬが、若し秘密の室があるなら、これまでにお前たちに知れて居るだらう。」
「私もやつぱり、どちらかといふと新まいですから、今迄気がつきませんでした。木村は教室が立ち始まつてから居りますけれど、老人で感じがにぶいからやはり知るまいと思ひます。」
「お前にしたところが、又僕にしたところが若し、教室に秘密の室があるとしたなら、それに気がつかなかつたのは随分迂闊だねえ。尤も小窪先生が、人に見つからぬやうに用心しておいでになつたからだといへば、とも角だが。」
「まつたく、小窪先生は、一寸見ると何食はぬ風をしておいでになりますけれど、その実、すごいくらゐ用心深い方です。木村の話によると、何でもこの教室は小窪先生が設計をして建てさせになつたといふことですから、秘密室のあることは珍しくないでせう。」
「さうか。で、お前は今晩、秘密室がどこにあるのか探して見たかい?」
「いゝえ、小窪先生は、お客様と帰りがけに研究室の扉に鍵をかけてお行きになりましたから、はひることが出来ません。それに、そんなことをしては、小窪先生がお怒りになると思ひます。」
「それもさうだ。ところで、先生は黙つて御帰りになつたか、それとも、何か言ひ残して置かれたかい。」
「あ、さうゝゝ。」と、小使は調子はづれの高い声を出した。「ついうつかりして居りましたが、お帰りがけに、小窪先生は、若し肥後君が今夜教室へ立寄ることがあつたら、研究室に肥後君宛の置手紙をしてあるから、そのことを話してくれとの事でした。」
「なーんだ、早くそれを言へばよいのに。」
肥後君は小使室を出て、廊下の電燈のスヰツチをひねり、研究室の前に来た。さうしてズボンのポケツトから鍵を取り出して扉をあけ、暗がりの室にはいつて入口にちかい、壁に設けられたスヰツチをひねつた。
パツと室内はあかるくなつたが、それと同時に肥後君は、室内のあるものを見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。
中央の研究台のこちら側に、むかう向きに、一人の若い女が、肱掛椅子にもたれて、身動きもせず腰かけて居たからである。
肥後君は背筋に水を流されたやうにぞツとした。この女はそもゝゝ何者だらう。何用あつて、研究室の、而も暗がりの中で、腰をかけて居るのであらう。
急に室内が明るくなつても、女は振り向かうとしなかつた。肥後君は、全身に戦慄を起しながら、暫らく立ち留つたまゝ女の後ろ姿を観察した。極めて乱雑な髪の結ひ方をして、着物もしつくり身に合つて居ないやうであつた。が、それにしても彼女は何故黙つて居るのであらう。
「もし。」肥後君は、もはや我慢が出来なくなつて大声で呼んだ。
が、女は依然として、その容を崩さなかつた。彼女は眠つて居るのであるまいか。
「もし。」もう一度、肥後君は、一層大きな声を出して叫んだ。
女はやつぱり、もとの侭であつた。あまりの気味悪さに、肥後君は、小使の後藤を呼ばうかとも思つたが、何だか女の様子に異常なところがあつたので、もしやと思つて、つかゝゝと傍により、斜に前面から、その女を観察した。
女の顔を見るなり、肥後君ははツと思つた。
それはまさしく、昨日の朝、千種刑務所から死体として運ばれた雲井龍子であつた。
その瞬間、肥後君は、万事を了解した。
死体を生前の姿のまゝで、永久に保存しようとする小窪教授の研究が、いよゝゝ完成の域に達したことを知つたのである。恐らくこの死体は、教授の施した処置によつて、永久にこのまゝの姿をして居ることであらう。さう思ふと、肥後君の全身には、いふに言へぬ恐怖の念が漲つた。
細く開いた眼は、生きて居る眼に比較して幾分か力なく見えるけれども、角膜の溷濁は認められなかつた。皮膚は大理石のやうであるけれども、普通の死体とはちがつて弾力があるやうに見え、唇の色は、多分外部から彩色を施されたものであらうが、適当な紅味を帯んで居た。
髪を結つたのも、着物を着たのも、恐らく小窪教授の手によつたのであらう。それにしても、この女は、何といふ美しさであらう。これが、数人の男を毒殺した罪の女だとはどうして思へよう。恐らく、罪悪から来る特種の表情は、「死」によつて洗ひ去られたのであらう。死は一切のものを浄化するといつた昔の人の言葉は、小窪教授によつて現実に示されることになつたのだ。
肥後君は、先刻の恐怖を忘れて、ひたすらに、美しい女の顔に見入つた。それのみか、今はもう、村井氏の事件の一切を忘れて、教授の製作品に見惚れた。さうだ、これは科学者が科学の力を応用して作りあげた一種の芸術品だ。小窪教授の理想と信念とが、死体を木乃伊化することによつて、見ごとに表現されたのだ。かう思ふと、一種の崇敬の念をさへ起さずに居られなかつた。死に対する恐怖の念が、若しスタンリー・ホールの言ふごとく死後の肉体の変化の恐ろしさに基因するものであるならば、教授のこの木乃伊法は、人類から死の恐怖を除くことが出来ると言へるであらう。
然し、小窪教授は、死の恐怖を除いた代りに新らしい恐怖を創造した。死んだ人間が生前の姿のまゝで永久に留まるといふことは、恐怖でなくて何であらう。と、思ふと、肥後君は、恍惚状態から、別の恐怖の状態に移るのであつた。
はツと思つて、我に返ると、その時、はじめて肥後君は、女が右の手に一本の封書を持つて居ることに気附いたのである。
眼を近づけて見ると、それは、自分に宛てた手紙であつた。それと同時にこれが、小使から聞いた教授の置手紙であることを知つたのである。
小窪教授は何といふ気味の悪いことをする人であらう。何といふいたづら好きの人であらう。かう思つて、恐るゝゝ女の指にはさまつて居た封書をとりあげて、封を開いて手紙を読んだ。
肥後君。
多分君が今晩、教室へ戻つて来られるであらうと思つてこの手紙を雲井龍子に託して置きます。
木乃伊の出来栄をどう思ひますか。
村井氏事件の捜索は進みましたか。村井夫人の病気が重いさうですから、この手紙を見次第是非村井家へ行つてほしいと思ひます。
十月二十二日夜 小 窪 介 三
肥後君はこの簡単な手紙を繰返して読んだ。ペンの走り書きであるから、多分、小窪教授は、アメリカの客と共に出かける際、急いで書いたものであらう。
簡単な手紙ではあるけれども、其処に何か重大な意味が含まれて居るやうな気がしてならなかつた。
村井夫人の病気が重いといふことを教授は誰から聞いたであらうか。ことによると教授は、そのアメリカの客からきいたのかも知れない。然らば、そのアメリカの客とは果して誰であるか。
押毛だ! 肥後君は心の中で叫んだ。先刻押毛の家宅捜索をした時、聞天館の主人は、押毛のもとへアメリカから一二度手紙が来たと言つたではないか。又、小使の後藤の話によると、小窪教授は、遠来の客に対して、少しも珍らしがらなかつたといふではないか。
小窪教授がアメリカで世話になられたといふあの写真の中の人は、押毛だつたのである。従つて、押毛の書物から犯罪方程式があらはれたのは当然のことである。
待てよ! と肥後君は考へなほした。押毛はたしか、眼鏡をかけて八字髭を生やして居たといふことだ。それだのに教授と共に写つて居る男は眼鏡はかけず、髭も生やして居ないではないか。而も小使の話では、押毛は、写真のまゝの姿でたづねて来たものらしい。
さうだ。押毛は一時身をかくすために眼鏡を取りはづし、髭を剃つたのだ。かう考へて肥後君は押毛と教授との連絡を発見したことに満足すると共に、教授が今回の事件の謎についてどれくらゐ知つて居るか、又今回の事件にどれくらゐ関係してゐるかを考へはじめた。
恐らく教授は自分達三人が苦心して発見したことをはじめから何もかも知つて居たのであらう。かう考へると肥後君は、一種の馬鹿らしさを感ずると共に、今朝の教授の白々しくして居た態度をにくらしく思つた。あの時自分たち三人に向つて語つた教授の言葉を冷静に考へて見ると、なるほど押毛をかばはうとする態度があきらかにあらはれて居た。
然し、教授は何故に、自分たち三人にむだ骨折をさせようとしたのであるか。自分たちの腕をためさうとする好奇心から自分の知つて居ることをもかくして居たのか、それとも他に、然るべき理由があつたのであらうか。人が一人殺されるといふことは重大な事件である。その犯人の捜索に際して、単なる好奇心から、知つて居ることをかくして居るといふことは、いたづらにしても、至つて罪深いものであると謂はねばならない。
それはさうとして教授は、村井氏の死体を盗んだのが誰であるかを知つて居るのであらうか。今朝、死体の紛失したことを告げに行つたとき、教授は昨日村井氏の死を告げたとき程驚かなかつたのは、それがためではなかつたか。
いづれにしても、教授に逢ひ得ないのは頗る残念であると肥後君は思つた。たゞ一本の手紙、而も極めて簡単な文句以外に、教授の言葉をきゝ得ないのは物足らなかつた。けれども、村井夫人を是非訪ねてくれといふ教授の言葉には、相当に深い意味がなくてはならぬと思つた。それは単に、夫人の容態を気づかつてのことであるばかりだと思はれなかつたからである。現に、肥後君自身も、鹿島刑事に語つたごとく、夫人が、今回の事件について、中沢に語つた以上に深いことを知つて居るやうに思へてならなかつたのであつて、恐らく、小窪教授も、その意味でこの手紙を書いたのであらう。
雲井龍子の木乃伊を前にして、思はずも空想に深入りした肥後君は、愚図々々して居て、村井家へ行くのが遅れてはならぬと、急いで手紙を折つて封筒に入れ、それをポケツトに捩ぢ込んだ。さうして、研究室を立ち去らうとしたが、その時ふと、先刻、後藤の語つた秘密室のことを思ひ出した。
肥後君は研究室の四壁を注意して見たが、どこにも秘密室に通ずるらしい扉のやうなものを認めなかつた。それから解剖室標本室を一巡したがやはりこれといふ異様なところは眼につかなかつた。
で、その捜索は別の日に譲ることゝして、研究室のスヰツチをひねつて暗くし、龍子の木乃伊をその侭にして、扉に鍵をかけ、やがて、大学の門を走り出た。
第十七章 電話
秋の夜の戸外の空気は冷たかつた。その冷たい空気に触れると、肥後君は急に空腹を覚えたので、右手に走つて、とあるレストランで夕食をすまし、それから急ぎ足で村井家に向つた。
肥後君はかねて八幡山あたりをよく散歩して村井家を知つて居たけれど、はじめて門の中にはいるのではあるし、ことにミステリーの焦点となつて居る屋敷であるから、門のそばへ来たとき一種の興奮を感じた。昼間でも、人通りの少ないところではあるが、今夜はことにひつそりとして、月光に叩かれた門の前の通りには、人影一つ見えなかつた。
ベルを押すと、二十八九の女中があけに来た。来意を告げると、喜んで招じ入れてくれた。
応接室にはいるなり、肥後君は、女中に夫人の容体をたづねた。
「……だいぶ御熱が高いやうで、うつらゝゝゝなさつておいでになりますが、時々、うは言を仰しやいますので、看護婦さんも心配して見えます。」
うは言ときいて、肥後君はどきりとした。
「看護婦がついて居るのですか。」
「はあ、大学の内科の先生の御指図で、二時間ほど前に来てくれました。」
「それは結構でした。時に夫人はいま御やすみになつて居るでせうか。」
「先刻から、東円寺の御院主様が御見舞に来て下さつて居ります。」
東円寺住職ときいて肥後君は何となく胸が躍つた。
と、その時廊下に跫音がしたので、女中が出て行つたが、間もなく、女中に伴はれて、がつしりした体格をもつた僧侶がはいつて来て挨拶した。いふまでもなく、それは友田覚遵師であつた。
女中が去つてから、二人は卓子をはさんで対座した。それから肥後君は自己紹介を行ひ、鹿島刑事と共に事件の捜索に従事して居ること、村井夫人の容態が重いときいたので、見舞に来たことなどを簡単に物語つた。
「それは御親切によく御いで下さいました。」
と住職は言つた。「只今、病室を御見舞したのですが、すやゝゝと御やすみになつて居りますから、一寸、その場をはづして来た訳で御座います。実は愚僧も、鹿島さんに、村井さんから預つた金庫の鍵を御渡ししてから、どんな遺言があらはれたか聞きたかつたし、夫人の御病気も心配になりましたから、御訪ね致しました。時に、遺言状の中にはどんなことが書かれてありましたか。」
肥後君は鹿島刑事から聞いた遺言の内容を伝へた。
「はゝあ、それでは村井さんが何のために姿をかくすつもりだつたか、相変らずわかりませんな。尤も、さういふ形式の遺言では、他人に知らせたくなからうから、遺言をする理由は書けぬ訳ですが、それでは、折角鹿島さんが当にして居られた遺言状も何の役にも立たなかつたのですな。」
肥後君は、そこで遺言状の証人となつて居る市川長兵衛氏を訪問して、鹿島刑事がさぐり出した事情を物語つた。
「はゝあ、それでは村井さんがその押毛といふ人と謀つて死亡広告を出したのですか。いや、どこまでも人が悪い。最初愚僧を訪ねられたときは、さもゝゝびつくりしたやうにして居られたが、あれはみんなお芝居でしたか。」かういつて住職は暫らくの間軽く笑つたが、また急に真面目顔になつた。「いや、笑ひ事ではない。で、何ですか、村井さんは毒に中つてなくなられたとの事ですが、誰が毒をのませたかわかりませんか。」
「それがさつぱりわからんのです。多分、丸薬のケースを奪つた人が犯人だらうとの見込です。」
「何、丸薬の箱をとつたのがやつぱり村井さんを殺した犯人ですか。」と、住職は急に膝をのり出して言つた。「で、丸薬の箱をとつた人間はわかりましたか。」
「推察だけはついて居るやうです。」
「さうですか。」と、住職はひとり合点するやうにうなづいた。
「丸薬のケースを盗んだのも、法医学教室から死体を盗んだのも多分同一人だらうと思はれます。」と、肥後君は住職の顔色を注意しながら言つた。
「おゝ、おゝ、さうでしたな。村井さんの死骸が大学から紛失したといふことでしたな。誰が村井さんの死体を盗んだかわかりましたか。」
「わかりました。」
「えゝ、わかりましたか。」
「村井さんの死体を盗んだのは、こちらへお出入りの殿山さんです。」
この言葉をきいて住職はあやふく立ち上らうとした。
「それは、それは本当ですか?」
「間違ひないやうです。ですから丸薬のケースを盗んだのも、殿山さんだらうといふことです。」
「それはちがひます……」
「え、ちがひますつて、それではあなたは、丸薬のケースを盗んだ人を知つておいでになりますか。」
住職の顔には、たしかに狼狽の色が浮んだ。
「いえなに、それは存じません。然し、あの晩通夜の場で、愚僧は殿山さんのそばに居りましたけれど、そんな様子はありませんでした。」
肥後君は先刻からの住職の態度と言葉からして、住職が丸薬のケースに就て、何事かを知つて居るにちがひないと思つた。「不用意に発した言葉に人間の心があらはれる。」とは、肥後君の目下の研究問題の眼目をなして居るのだ。
住職は肥後君に自分の心を見透かされやしなかつたかを怖れるやうな眼付で、言葉を続けた。「殿山さんが、あの丸薬の箱を一旦取り出して、再び盗んで行かれるとは、考へられぬ事だと思ひます。丸薬の箱が欲しかつたら、検査のときに、黙つて取つて行かれる筈ではないでせうか。」
いはれて見れば、肥後君も、住職の説に同意せざるを得なかつた。が、暫らく考へてから言つた。「でも、殿山さんは、皆さんの前で死体を検べられたのですから、一寸、かくすことが出来ず、やむなく一旦取り出して、皆さんが、ごてゞゝして居られる間に、機を見て再び奪ひ取つたのだらうと思ひます。さもなくては殿山さんが、村井さんの死体を盗んで行かれた理由がわかりません。」
「いかにも、その通りですな。」と、住職は眼をふせて考へた。「いや、殿山さんがそんなことをされようとは夢にも思ひませんでしたよ。何のためにそんなことをされたか、愚僧には見当がつきませんが、やつぱり、殿山さんに後ろぐらゐところがあつてのことにちがひありませんな。ですが、こんな風には考へられませんか。丸薬の箱を盗んだのは別の人で、殿山さんと、その人とが共謀になつて居つたといふ風には……」
「御尤もです。鹿島さんは、押毛さんと殿山医師と共謀ではなからうかといふ説を建てられましたが、僕には、押毛といふ人は、村井さんの味方としか思へません。」
「愚僧もあなたの御考に賛成です。中沢さんは通夜の場で、しきりに押毛さんのことを悪く言つて居られましたが、丸薬の箱を盗んだのは押毛さんではありませんよ。」
肥後君はチラと住職の顔に眼をやつた。「小窪先生の仰しやるには、村井さんに毒を与へたものは模擬葬式の始まる前に、村井家に居た者の中にあるに違ひないから、押毛さんではなからうといふことでした。」
この言葉をきいて、再び住職は興奮の色をあらはした。「へえ、小窪先生がさう仰せになりましたか。さすがは大学の先生ですな。実に感心ですな。」
肥後君は、いよゝゝ住職の態度に好奇心を湧かせた。が、住職は、肥後君の好奇心に対して、一かう無関心に言を続けた。
「小窪先生はいつでも御目にかゝることが出来ませうか。さういふ先生には一度御目にかゝつて置きたいと思ひますが。」
肥後君は住職のこの言葉に、急に緊張を破られた。「毎日夜の九時頃までは教室に見えますから、教室で御逢ひになるとよいでせう。」
「さうですか。」と、住職は懐中時計を出してながめた。「今日はもう教室にはおいでになりませんな。」
「先刻教室へ寄りましたが、とくに御帰りになりました。」
「では御宅はどちらでせうか。」
肥後君は手帳を取り出し、その中の一枚を破つて、小窪教授の住所を書いて、住職に手渡した。
その時、応接室の扉があいて、先刻の女中がはいつて来た。
「肥後さん、御電話がかゝりました。」
「えゝ? 僕に?」
「はい、あの鹿島さんからで御座います。」
鹿島刑事ときいて肥後君は弾かれたやうに立ち上り、住職に挨拶してそゝくさと出て行つた。
それから肥後君は長い間戻つて来なかつた。凡そ十二三分も過ぎてから、応接室へはいつて来たが、その顔には、明るくもあり、又暗くもある表情が交互にあらはれて居た。
「何かよいたよりが御座いましたか。」と、住職はさぐるやうな眼付でたづねた。
「富子さんのかくれておいでになるところがわかつたさうです。」
「や、それは結構でした。嘸、夫人が喜ばれることでせう。一たいどこに居られたのですか。」
「中村遊廓の銀糸楼といふ家です。」
「へえ、それは又意外なところで。」
「鹿島さんと僕とは聞天館の前で別れましたが、鹿島さんはそれから、一人で殿山医院をたづねに行かれました。といふのは、今日、殿山さんは、中沢さんと一しよにこちらのお宅から自動車で出かけられたのですが、そのまゝ中沢さんが行方不明になつたからです。今朝中沢さんのところへ脅迫状が届いて、その中に、富子さんを五時間以内に帰宅させねば生かして置かぬと書かれてあつたのです。その脅迫状はどうやら殿山さんが書いたものらしいのです。中沢さんは富子さんの行方が知りたさに、一しよに事件の捜索に加はつたのですけれど、殿山さんは、中沢さんが富子さんをかくしたものとでも思つたらしいのです。ところで、鹿島刑事が今晩、殿山医院の前に行くと、医院には午後から誰も居なかつたさうですが、暫らくすると、意外にも医院の中から奇術師の松華が出て来たさうです。いや、驚きになるのも無理はありません。僕も今電話でそれをきいた時は驚きました。それから刑事が松華の後をつけて行くと、途中で一旦見失つたのださうですけれど、松華が中村遊廓へはいつたことはたしかであつたから、鹿島さんは、他の刑事と一しよになつて捜したのださうです。すると難なく、松華が銀糸楼へはいつたことがわかつたので、しらべて見ると、富子さんがかくれて居たさうです。」
「へえ、どうして又、遊廓などへかくれたのでせう。」
「押毛さんがつれて行つたのださうです。」
「それではやつぱり、中沢さんの推察通り、押毛さんが富子さんをかくしたのですな?」
「さうです。然し、悪意があつてではなく、富子さんを保護するためだつたのです。」
「押毛さんも一つ家にかくれて居たのですか。」
「富子さんと一しよに居たのですけれど、刑事が行つたときには、恰度、法医学教室の小窪先生をたづねた留守だつたさうです。」
「えゝ?」と、住職はその田螺のやうな眼を一ぱいに開いて言つた。「小窪先生を? 何のために?」
「実は委しくお話しなければわかりませんが、夕方、鹿島刑事と僕とが、押毛さんの家宅捜索をしましたとき、僕はある証拠から、押毛さんが小窪先生の知己にちがひないと推定したのです。それから教室へ行つて見ると、小使の言ふのに、先刻珍らしい人が小窪先生をたづねて来たとの事でした。僕はそれを押毛さんだと推定したのですが、今、鹿島刑事からきいて僕の推定が当つて居たことを知りました。押毛さんは眼鏡をはづし、髭を剃つて、見つからぬ用心をして居たのださうです。」
「然し。」と、住職は暫らく考へてから言つた。
「富子さんを保護するために、何故そのやうなことをしたのでせう。富子さんをお宅へ連れてかへつたとてよいではありませんか。」
「それを今、僕も電話で刑事にたづねたのですが、それ等の事情の委しいことは、肝腎の押毛さんが居ないからわからないといふのです。」
「けれども、富子さんが居られるのだから、富子さんにきけばわかるではありませんか。」
「ところが、その富子さんが、今しがた、再び、姿をかくしたのださうです。」
「えゝつ?」と、住職はわが耳を疑ふかのやうな表情をした。「それは又、どうした訳ですか。」
「何でも、鹿島刑事が、富子さんに向つて、いきなり、夫人の病気が重つたことゝ、中沢さんが殿山さんと一しよに出たまま帰らないといふことを話したら、間もなく、居なくなつてしまつたさうです。銀糸楼の各部屋をさがして居ないから、多分、帰宅したのだらうと思つて、鹿島刑事が、僕に問合せの電話をかけた訳です。」
「あちらで不在になられてからもうよほど時が経つたのですか。」
「鹿島刑事の話では、あれからまつすぐに家に帰つて居られるのだつたら、もう一時間も前について居られねばならぬといふことです。」
「それは心配ですな。」
「松華も大へん心配して、しきりに押毛さんに済まぬといつて居るさうです。」
「松華といへば、松華が何のために、殿山医院へ行つたのでせうか。」と、住職も、今は、詮索本能の奴隷となつたかのやうに、熱心にたづねた。
「鹿島刑事の話によると、押毛さんは、村井さんの死骸が盗まれたといふことをきいて、多分、殿山さんの仕業であらうと考へ、松華に、死体がかくしてあるかどうかを捜しにやつたのださうです。」
「それでは、押毛さんは、村井さんを殺したのは殿山さんだと推定したのでせうか。」
「さうと見えます。」
「押毛さんはどうして、村井さんの死体が盗まれたことを知つたのでせう。小窪先生からでもきいたのでせうか。」
「さあ、その辺のところは、僕も鹿島さんに御たづねしなかつたからわかりません。村井さんの死体の紛失した事は今日の夕刊に出て居るかも知れませんが、押毛さんは、たしかにそれよりも早く知つて居たにちがひありません。又、小窪先生が押毛さんに御通知になつたといふことは考へられないと思ひます。」
「さうすれば、誰から聞いたのでせう。」
肥後君は住職の根掘り葉掘りの質問に一種の圧迫をさへ感じた。一たい何のために住職は、こんなに熱心になつたのであらうか。単なる好奇心のためか、或は特種な詮索癖があるのか、それとも、他に深い原因があるのであらうか。
「さあ、それは僕にはわかりません。先刻僕は、教室で、小窪先生の置手紙を受取りましたが、その中に、村井夫人の病が重いさうだから、是非傍へ行つてあげてくれと書いてあつたところを見ると、それは、先生が押毛さんからきかれたにちがひないと思ひます。即ち、押毛さんは夫人が重態になられたことをも誰かある人から聞いただらうと思ひます。では誰でせうか。僕の単なる想像ですけれど。」と、肥後君は急に声を低くして言つた。「押毛さんにはきつと、お宅の女中の一人と懇意ではないかと思ひます。」
住職は肥後君の説明をきいて、はじめて、なる程といふやうな表情をして、前こゞみにして居た上体を再びまつすぐに起した。
その時、廊下にあわたゞしい足音が聞えたかと思ふと、先刻と同じ女中が息を切らせて入つて来た。
「肥後さん、どうか、すぐ病室へ来て上げて下さい。」
「奥さんがどうかなさいましたか。」と、いつて肥後君が立ち上ると住職も同時に立ち上つた。
「あの、又、急にお熱が高くなつたやうで、しきりにうは言を仰しやるやうになりました。看護婦さんが心配して、すぐ御呼びして来てくれとの事でした。」
「参りませう。」と、肥後君は女中に従いて出て行かうとした。
「あゝ、一寸。」と住職は呼びとめた。「夫人がさういふやうな御容態では、愚僧が居りましても役に立ちませんから、これで御無礼して帰りたいと思ひます。どうぞ、夫人によろしくお願ひ致します。」
住職の帰るのを送り出した肥後君は、女中に案内されて長い廊下を離れ座敷に向つて歩いた。歩き乍ら肥後君は、夫人がどんなうは言をいふであらうかと胸をとゞろかせた。さうして、夫人のうは言から何かしら、今回の事件に関した重要なことを聞き出せさうに思へてならなかつた。
やがて肥後君は静かに障子をあけて、夫人の病室へはいつた。さうして静かに病人の枕もとに坐つた。読者諸君。果して肥後君は、夫人のうは言を分析して、事件の解決に導くべき重要な手がかりを見つけるでせうか。
第十八章 絶体絶命
こゝで話は前に戻つて、筆者は殿山医師と、中沢保との差し迫つた関係について記さうと思ふ。
村井氏の死体が、その実、村井氏に酷似した男の死体に過ぎないことを知つた時の、殿山医師の顔には、恐怖とも、絶望とも、憤怒とも、名状し難い凶悪な表情が浮んだ。中沢はそれを見て、これこそ世に言ふ悪魔の形相だと思つた。さうしてそれと同時に、脳貧血に似た一種の軽い発作に襲はれて、思はずも眼を塞いでしまつた。
眼を塞ぐと同時に、保の頭の中には、この不思議な事実、即ち、村井氏に酷似した死体の出現についての考が、旋風のやうにふるひ起つた。殿山医師の驚駭の様子から察すれば、殿山はこれを真実の村井氏の死体だと思つて居たことは疑ふべき餘地もない。又、この死体を殿山が法医学教室から盗み出したことも、彼の先刻の言葉からして明かである。して見るとこの死体は、法医学教室に村井氏の死体として置かれてあつたものでなければならない。然らば真実の村井氏の死体は何処にあるであらうか。若しこの死体が、村井家から法医学教室へ運ばれたものであるとすれば、真実の村井氏はまだ生きて居るであらうか。模擬葬式を行つた当の人は、村井氏ではなくて村井氏の替玉であつたであらうか。
が、次の瞬間、この想像は、今しがた殿山の叫んだ「こりや絞殺された死体だツ。」といふ言葉を想ひ起すことによつて完全に砕かれてしまつた。さうだ、村井氏はやつぱり毒殺されたのだ。小窪教授はそれを明言したのではないか。従つて真の村井氏は毒殺され、この村井氏に酷似した男は絞殺されたのであらう。然らばこの死体は法医学教室に於て偶然すり換へられたのであらうか。それとも誰かに故意にすり換へられたのであらうか。
「わツはツはツはツは。」
突然、部屋が震動するやうな笑ひ声が起つたので、保は空想からはツと我にかへつて、眼を開いた。見ると、殿山医師は持ち上げて居た死体の首を戸板の上に叩きつけるやうに置いて、うしろにそりかへつて大声で笑ひ出したのである。
その姿を見た保は、全身にひやりとするものを感じた。
「殿山医師は発狂したのだ。」
かう思つて、殿山の様子を見て居ると、やがてその笑顔が急に猛悪な相になり、獲物を前にした野獣のやうな眼をして、保の顔をじつと見つめた。保は依然として全身をしばられて居たが、あまりの恐ろしさに、後ろへ身を引かうとした。
突然、殿山医師は中腰になり、前面から保の肩をポンと叩いて命令するやうに言つた。
「やい、よく聞け、貴様は……貴様は、いよゝゝこれから俺に殺されるんだぞ。俺はもう絶体絶命だ。」
かう言つてから、殿山は傍に転がつて居た小さな薬罎を取り上げ、保の目の前にかざした。
「これは、この罎にはいつて居るのは濃硫酸だぞ。これを貴様の静脉の中に注射するのだ。硫酸を注射して人を殺すのは、俺がはじめてかも知れぬ。硫酸は人間の組織をめちやゝゝゝにしてしまふから注射には適しないかも知れぬが、硫酸によつて生ずる血液の凝固物は、たゞちに脳に栓塞を起して、一瞬間に人を殺すことが出来ると思ふのだ。だから俺はそれをためしにやつて見るのだ。もうかうなつたら、たとひ貴様が富子のありかを白状しても、俺は貴様を行かしては置かぬ。」
保は重なる疲労と恐怖から全身がふのりに化したやうな感じを起し、医師のこの言葉もいはゞ上の空で聞いて居た。
「やい。しつかりせぬか。」と、医師は保の肩をはげしく搖ぶつた。「どうせ、貴様は死んで行く人間だから、あの世への土産に、何故俺が、村井の死骸をこつちへ取つて来たかを聞かせてやらう。然しこの死骸は村井のぢやなかつた。どうして間違つたか俺は知らぬ。然しそんなことはどうでもよい。……どうでもよいんだ、本当に、どうでもよいんだ。解剖されたら、俺に嫌疑がかゝるにちがひないから、富子の所在が知れるまで、死骸をこつちへ預つて置くつもりだつた。けれども違つた死骸をつかまされたとなりや、もう俺は破れかぶれだ。貴様を殺して、この死骸と共に焼き捨てるか、硫酸にとかすかするんだ。
「おい中沢、しつかりして聞け。殺された村井喜七郎といふ奴は恐ろしい人間だつたぞ。あいつは他人の細君を横取りしてその良人を殺した不逞漢なのだ。だからあゝした運命になつたのは当然なんだ。おもて向きは、冗談にまぎらせて、その実心の中で、あいつはいつも恐ろしい悪事をたくんで居たのだ。今病気で苦しんで居る夫人は、村井が横取りした当の女なのだ。あの女は子供まであつた前の良人を捨てゝ村井のところへ走つたのだ。いや、村井の甘言にだまされて、村井と謀つて、その良人を殺したのだ。だから、村井が殺され、自分が重病に苦しむやうになつたのも、当然の罰なのだ。
「天は決して悪人に味方をしないのだ。蒔いた種は当然刈らねばならぬのだ。だが、悪が栄えるときは天もよう手出しをしないと見える。村井は村井のその悪事を知つて居た唯一人の証人をその後になつて巧みに殺してしまつたのだ。その証人といふのが三年前に死んだ俺の父なのだ。俺の父は村井の悪事を知つて居たゝめに、村井に殺されたのだ。
「俺の父も医者だつた。ある晩父は宴会からしたゝか酔つて帰つたが、その夜急に容態が変つて死んでしまつた。その時は脳溢血だといふことになつてすんでしまつたが、あとで父の二十年ばかり前の日記を発見して、父が村井の悪事を知つて居ることがわかつたので、若しやと思つて、その夜の宴会の模様を詮索して見ると、果して、村井もその宴会に居たといふことだ。だから、俺は、父が村井の為に毒をのまされたものと判断したのだ。俺は復讐心に燃えた。然し、万事後の祭りだから致し方がない。そこで俺はいつそ父の日記を発表して村井の罪を世間にあばかうかとも思つたが、それよりも、別の方法で、俺は復讐心を満足させようと思つたのだ。それが即ち、俺と富子との婚約だ。俺は富子がほしくてならなかつたのだ。だから村井に迫つて富子を貰ふことにしたのだ。富子も夫人もこのことは知らなかつたにちがひない。それは先刻貴様に見せた村井の手紙でもわかる。又、模擬葬式の当夜、俺が富子に今夜俺と結婚するのだと話したら、びつくりして居たのでもわかる。村井の手紙には、結婚披露の間際まで発表してくれるなと書かれてあつたけれど、あの晩富子が何だかうれしさうにそはゝゝして居るのを見て、きつと結婚のことを村井からきかされたのだらうと思つて、俺は話したのだ。
「ところが村井は棺の中で頓死した。それから、富子が姿をかくした。俺が検べて見ると村井は逃支度をして居た。それから刑事の出張となり、丸薬のケースが紛失したので、何が何だかちつともわからなくなつた。さうして最後に富子と貴様との結婚の披露がある筈だつたときいて俺は驚いてしまつた。これには何か深い訳があるにちがひないと思つて、何もいはずに俺はみんなの様子をうかゞつて居たのだ。
すると押毛が居なくなり、貴様は、富子を押毛が誘拐したのだらうと言つた。俺もはじめはさうかと思つて居たのだが、帰宅しがけに、夫人を診察したときふと蒲団の下に富子が母親に宛てた手紙のあることを見つけたのだ。俺はそれをポケツトに入れ、家に帰つて読んで見ると、富子は貴様がかくしたことがわかり、はじめて今回の事件は貴様が計画したといふことを知つたのだ。
「その時俺は、貴様が多分、俺と富子との結婚のことを、聞き出したにちがひないと思つたのだ。貴様は富子を俺の手から横取りするために、村井を毒殺したんだ。さうして証拠をなくするために丸薬のケースを奪つたのだ。
「俺は思つたよ。うつかりすると俺の身が危いかも知れんとな。貴様は自分で村井を毒殺して置いて、この俺に嫌疑をかけるやうにたくらんだのかも知れぬと思つたのだ。まつたく、あの丸薬のケースは俺が村井に持薬として与へたものだから、第一に俺のところへ嫌疑がかゝつて引張られる。その間に貴様は富子を連れてにげてしまふ。さう考へるとぢツとして居れなくなつたので、俺は死体を盗んだのだ。それに元来、俺の父を殺したにくい奴の死体だから、その腹癒せに俺の手で焼き捨てるか又は薬品にとかして処分してしまはうと思つたのだ。ところが今、俺はこの死体が村井の死体でないことを知つて、びつくりしたよ。まつたく驚いたよ。俺は一時気が狂ふかと思ふ程驚いたよ。誰が何のためにすり換へたか俺は知らぬ。ことによると貴様の仕業かも知れんな。……まあいゝ、そんなことはどうでもいゝ。たゞ俺は、あのにくい村井めが死んだ後まで侮辱したかと思ふと、堪へられぬくらゐ腹が立つのだ。この死体は誰だか知らんが、村井だと思つて焼き捨てるんだ。さうして、序に貴様の死体も処分してしまふのだ。もう、富子の行先などきかなくてよい。富子も、見つけ次第に、硫酸を注射して、死体を焼いてしまふ。おい中沢、これが、俺の貴様に与へる引導だぞ。さあ、潔く死ぬんだ。」
殿山医師の声は、終りに近づくに従つて嗄れて来た。保は、医師の語る間うす目をつぶつた侭その恐しい話をきいて居たが、医師の言葉を真実と思ふことが出来なかつた。彼には村井氏が、殿山の言ふやうな悪人であるとは信ぜられなかつた。然し若し、殿山の言ふことが真実であるならば、殿山は復讐のために村井氏を殺したのであるに違ひない。かう思つて眼を開いて見ると、恰度注射器を取り上げるところであつた。保はぎよツとした。彼は本当に自分を殺すつもりであらうか。
薄暗い電燈に照された殿山の陰影の多い顔はこの世のものとは思はれなかつた。その顔にはたしかに殺気が漲つて居た。
あゝ俺は、硫酸を注射されて死ぬのか。と思ふと、自分の過去のことや富子の姿が一瞬間眼の前にちらついたが、愈々殿山が注射器に硫酸を充したのを見たとき、不思議にも彼の心は冷静になつた。
「さあ。これから貴様の縛られた腕の静脉にこれを注射するのだ。」かう言つて殿山は保の後ろにまはり、注射器を畳の上に置き、ポケツトからナイフを取り出して、洋服の袖の一部分を切り開かうとした。
「待てツ。」と保は大声に叫んだ。その声は今までと打つて変つて威厳に満ちて居たので、殿山は、つと手を引いた。
「俺は貴様に殺されることを覚悟して居るが、村井社長を殺したのが誰であるかを知らなければ、死んでも死にきれないんだ。誰が殺したか、たつた一言でよいから聞かせてくれ。」
「俺は知らぬ。」と、医師は吐き出すやうに言つた。
「知らぬことはないだらう。貴様は復讐のために村井社長を殺したのだらう?」
「ちがふ。」
「どうせ俺は死んで行く身体だ。俺に聞かせたとて誰にも知れる筈がない。俺の一生の願ひだ、真実を教へてくれ。」
「断じて俺ではない。」
「では誰だ。」
「俺は貴様だと思つて居るんだ。」
「俺でないよ。」と中沢はきつぱり言つた。「俺も死んで行くときには嘘は言はぬ。」
「それなら俺は誰だか知らぬ。」
「本当に知らぬといふのか。」
「本当に知らぬ。」と殿山は言つた。「では俺もきくが、貴様はやつぱり富子の在所を知らぬか。」
「知らぬといつて居るぢやないか。」
「まあいゝよ。」と、殿山は嘲るやうに言つた。
「何を?」と保はいきまいた。
然し殿山はそれには答へないで、保の洋服の袖にナイフを当てようとした。と、その時である。室外の廊下らしいところをあわたゞしくこちらへ歩いて来る足音が聞えたので、殿山はつと飛びのいて畳の上に坐つた侭、用心の身構へをした。
襖があいた。あらはれたのは、殿山医院の書生であつた。
「先生、喜んで下さい。富子さんをひつつかまへて来ましたよ。」と書生は大きく息使ひをしながら言つた。 (つゞく)
底本:「新青年」昭和2年6月号