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断食の幻想

小酒井不木

 桜が散つて菜の花が咲いた。
 文学士環龍観は僧侶が厭になつた。田舎の寺の、豆腐を舐めるやうな単調な生活もその原因ではあらうが、それよりも、悩みを齎らす春の風が、独身の彼の心をいら立たせたと見るのが至当であらう。
 彼はその心を慰めるために、大蔵経を取り出したが、最初の経巻の一行も読み続ける勇気がなかつた。さうして、本箱を見ても、一冊も満足を与へてくれさうな書物はなかつた。
 ふと、坪内博士訳の「ハムレツト」が目についたので、久し振りに読んで見る気になつた。亡霊の出現にはそれほどの興味を起さなかつたが、オフィリアの狂乱には強く引きつけられた。
「女が欲しい!」その夜、彼は突然睡眠からさめて叫んだ。
 けれども女は、そんなにたやすく求め得られなかつた。ところが一旦欲しいと思ひ出したら、もはやじつとしては居れぬやうになつた。彼の欲望はシヤボン玉のやうにふくらんで行つた、今にも破裂しさうであつた。果は眼の前に七色の虹があらはれた。
 彼は悩んだ。どうしたら、この苦境を切り抜けることが出来るかと考へた。
 その結果、昔の高僧たちが行つたやうな断食をしようと決心した。三七日の間、観音様に願をかけて、うまい解決法を授けて貰はうと思つた。満願の夜に聞える夢の御告即ち断食の幻想に、昔と今とでどんな差異があるかを見るのも興味あることだと思つた。
 彼は本堂の裏の一室に、観音像をかけて、式の如く断食を行つた。即ち水より外には、一粒の飯も取らず、端座して瞑想にふけつた。
 断食は滞りなく進行して、いよゝゝ満願の夜となつた。
 気がついて見ると、彼は見渡す限り菜の花で蔽はれた平野の小径を、真黒なビロードの服を着て歩いて居た。腰には黄金作りの鞘をもつた短い剣をつけて居た。
いくら歩いて行つても、黄色の波は果しがなかつた。碧空には一片の雲もなく、地上には彼の他に人は無かつた。ただ無数の蝶々が、風に吹かれ、花に狂つて居るだけであつた。
 突然、彼の数十歩先に、淡桃色の服装をした金髪の女があらはれた。彼女は手に白い花かづらを持ち、蝶々に導かれながら、走るやうにむかうへ歩いて行つた。
  門へ行こぞや、引明方に、
   ぬしのお方になろずもの、
    それと見るより門の戸あけて、
     ついと手を取り引き入れられたりや。
      純潔の処女ぢや戻られぬ。
 女の唄ふ声が、彼の鼓膜をつんざくやうに鋭くひゞいた。
「オフィリア!」彼は叫んだ。
 女は振り向かなかつた。
「オフィリア!」
 もう一度、彼は力一ぱい叫んで、彼女に追いつかうとした。
 彼女はやはり振り向かなかつた。それのみか、逃げるごとくに走り出した。
「オフィリア! 予だ! ハムレツトだ!」
 叫びながら、彼は全速力を出して走つた。彼女との距離はだんゞゝせばめられて行つた。
 凡そ一メートルのところまで追ひついたとき、彼は最後の努力をもつて、彼女にをどりかゝつた。
 オフィリアの持つて居た花かづらが、ひらりと空に舞ひ上ると、白い花は無数に殖えて、菜の花の上に、点々として散ばつた。それと同時に異様な現象が起つた。
 今迄地上の花だと思つたのは、黄色の熱したどろゞゝの液体と変じて、彼女と彼とは、その中に煮こまれようとした。ハツと思つて前方を見ると、熱のために凝固した部分が、巨大な毛氈のやうにめくれて来て、二人を蔽ひかぶせようとした。
 彼はオフィリアを抱いてもがいた。然し、液体はだんゞゝ凝まつて来た。
 さうして、オフィリアはこの焦熱地獄の苦しみの中で、恋人に抱かれて居るとも知らず、相変らず、澄んだ声で、恋の唄をうたつて居た。

 暫らくの間、環龍観ははげしい呼吸を続けて居た。だんゞゝ意識が恢復すると、今のが、満願の夜の断食の幻想であるとわかつた。
「はゝゝゝゝ」突然彼は笑ひ出した。彼もまたオフィリアのやうに気が違つたのであらうか。「予はハムレツトでなくてオムレツトになつたのだ。馬鹿な、古い洒落だ。だが、断食の幻想では食慾の方が性慾に勝つものと見える。いや、これが、或は近代的の幻想といふべきものかも知れない……」
(完)

底本:「新青年」昭和2年5月号