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卒倒


 小酒井不木


 四十を越した独身の女教師の誰でもがさうである如く、N市立第一高等女学校の英語教師武藤ひろ子女史は極めて意地が悪かつた。意地の悪い先生は必ず生徒に対して依怙贔屓をするものであつて、武藤女史も、一部分の生徒には好かれて居ても、大部分の生徒からは頗る嫌はれて居た。
 一般に意地の悪い女の「先生」には美貌が少いものである。武藤女史が今まで独身を守つて来たのも、その主要な原因は、その容貌にあつた。彼女は額がカントのやうに広く、また高度の近視眼で眼鏡をかけて居た。これだけ言へば敏感な読者は髪の毛がうすく、鼻が低く、唇が厚く、背が小さいことを推察されるに違ひない。然し、額が広いといふことは女でも知力の優れた証拠になると見え、彼女の英語は頗る達者であつた。尤も、このことは、常に女史自身の吹聴するところであつて、世間の定評ではなかつた。時々この学校へは外国人が訪問して講演を試みるのであつたが、いつも女史によつて極めて流暢に通訳されるので、英語といふものを少しも知らぬ校長は、大に女史の語学の力に信頼して居たのである。
 英語の教師は武藤女史の外にもう一人あつたが、その人は先日結婚すると同時に退職し四月の新学期から、そのあとへ、A女学院を出たばかりの若い教師が雇はれて来た。彼女は吉村清子といつて、武藤女史とは反対に、女学校の先生には似合はぬほどの美貌を持つて居た。この美貌が、好色を内職として居る尊厳な校長に気に入つたと見え、彼女は一年級と四年級の英語を受持たされたのである。
 このことは、読者の想像せらるゝごとく、武藤女史の感情を致命的に傷けた。それでなくてさへ、醜貌の女と美貌の女とは鴉と梟の仲よりも悪いものであるから、武藤女史は吉村女史に対してはげしい敵意を抱き、事々に吉村女史を苦しめた。気の小さい吉村女史は、よくその原因を知つて、度々校長に向つて、一年級だけを受持たせて貰ひたいと、ある時は、その豊かな黒髪をゆすぶりながら、泣いて頼んだ。けれど、深い原因を知らぬ、否知つて居てもあまり同情しない校長は、たゞやさしく彼女の肩に手を掛け、あから顔を耳元に寄せて、「まあいゝから、暫らく我慢しなさい」と唇を歪めて言ふだけであつた。
 一方、武藤女史は、何かよい機会があつたならば思ふ存分吉村女史を恥かしめてやりたいものだと、それのみに心肝をくだくのであつた。そのためか、近頃は、生徒に対しても、いはゆる天候険悪となり、従つて生徒は、一層女史をにくむやうになつた。
 彼此するうち、春もいつしか過ぎて、メリンスの長襦袢に汗のにじむ季節となつた。ある日校長は、武藤吉村両女史を呼んで、明土曜日の午後、シカゴの女史師範学校長たるジエフアーソン博士が当校へ来て一場の演説を試みられるから、二人のうちで通訳して貰ひたいと言ひ渡した。武藤女史はこゝぞと思つて、
「あら校長先生、どうしませう。今朝郷里の母が急病だといふ手紙を受取りましたので、今晩から日曜へかけて見舞つて来ようと、ちやうど今、御願ひにあがらうと思つたところです。吉村さんは英語が大へんお上手ですから、通訳はどうぞ吉村さんに御願ひして下さい。」と、厚い唇のまはりに狡猾な笑を漂はせて言つた。
 吉村女史はぎくりとした。武藤女史の意地の悪い言葉に驚くよりも、むしろ、今迄経験したことのない演説の通訳をしなければならぬことに面喰つたのである。然し、英語を知らぬ校長は、通訳ぐらゐは何でもないことのやうに平素思つて居るのであるから、武藤女史の悪意にも気づかず、すなほに帰宅をゆるして、吉村女史に通訳を命じたのであつた。吉村女史はいよゝゝ面喰つて引受けるともなく引受けてしまつたが、その困惑した有様をながめた武藤女史は、鼠を捕へた猫のやうに、両眼に満足の光をたゝへて校長室を出た。
 吉村女史は反対に、熱病にかゝつたかのやうにふらゝゝとした足つきで校長室を出て、それから逃げるやうにして下宿に帰つたが、考へれば考へるほど、くやしくもまた悲しかつた。彼女は自信のない科目の試験を受けるときのやうな内心の興奮を覚えた。実際、彼女は、アメリカ人の演説を通訳し得るだけの自信を持たなかつた。それならば、なぜ、あのとき、校長の前で、私にはとても通訳が出来ませんと言ひ切れなかつたか。それは、彼女にも押へ切れぬ反抗心があつたからで、武藤女史の居る前では、どうしてもそれを言ひ出す勇気がなかつたのである。ところが今、下宿の机の前で冷静に考へて見ると、彼女は、校長と武藤女史との二人の前で恥をさらす代りに、学校全体の人々の前で恥をさらさねばならぬことにしてしまつた。さうしてそれを思ふといふに言へぬ後悔の念がむらゝゝと湧いて来るのであつた。
 彼女は、いつそこのまゝ女学校を退職してしまはうかとも思つた。然し、これだけのことで折角羸ち得た職を棒に振るのも惜しかつた。彼女はジエフアーソン博士が急病にでもなるか或は来訪を中止してくれゝばよいがとも思つた。或は学校が焼けてくれないかしらとも思つた。彼女は亡くなつた両親がしきりに恋しくなつた。こんなとき心から慰めてくれる恋人があればよいとも思つた、いつそ大地震でも起つて下宿の家がつぶれ、大怪我でもするか、或は又急性の伝染病にでも罹つたらとさへ思つた。
 かうしたとりとめのない考に耽りながら、内心では号泣しつゝ床の中にはひつたが、長い間眠ることが出来なかつた。恐ろしい試練の時が刻一刻近づくことを思つて、髪の毛をむしり取りたいやうな衝動に駆られたが、いつの間にか彼女の考へは武藤女史に集中された。武藤女史の母が急病であるなどとはまつかな嘘で、自分を困らせるために考へ出した咄嗟の策略だと思ふと、ヘーヤピンの先で武藤女史のあるか無いかの乳房の下をぷつつりと突き刺してやりたいやうにも思つた。然し、この一時的の興奮が去つてしまふと、こんどは武藤女史に対する反抗心が燃え出した。さうして、たとひ不完全な通訳をしてもかまはないから、運を天に任せて全力を尽して見よう、ことに武藤女史は、あゝ言つた以上、明日は欠席して居ない訳であるから、あとで揚足をとられる心配もないと思ふと、はじめて軽い気持になつて、うとゝゝとすることが出来た。
 あくる日学校へ行くと、果して武藤女史は欠席して居た。然し、試練の時間が近くことを思ふと、掌に汗がにじんで、午前の授業はうはの空であつた。昼飯をすますと間もなくジエフアーソン博士は四十五六の、でつぷり太つた身体に鼠色の洋服をまとつて、吉村女史の苦痛を少しも察しないで、二人の随行員と共に、にこゝゝしてやつて来た。無論吉村女史がその接待役を受持つたが、彼女の胸の動悸は徒らに高まるだけで、碌な会話も出来なかつた。
 十二時四十分に生徒一同は講堂に集つた。職員は両側にずらりと居列んだ。外には夏の日が白い校庭に反射して、あるか無いかの風が、ポプラの樹の葉を動かして居た。講堂の窓はみな明け放たれてあつたが、六百人の生徒が一堂に集つて居ることゝて、中は可なりに暑かつた。
 時計が一時を示すと、ジエフアーソン博士は吉村女史に案内されて、設けの席に就いた。女史の顔は異常に蒼かつたが、一同の眼は博士の髭のない丸々とした顔に注がれて居たため、誰も気附かなかつた。やがて、校長は登壇して、ジエフアーソン博士を簡単に紹介し、吉村女史の通訳で「アメリカの女学生」といふ題で演説をして下さるのだと述べた。
 ジエフアーソン博士は、その間、にこゝゝしてきいて居たが、校長にさしまねかれるなり、その巨躯を起しつゝ満場の拍手に迎へられて登壇し、続いて、病み上りの羊のやうに、吉村女史が登壇した。
 と、ちやうど、その時である。場内がまさにしーんとしかけようとした時、講堂の横側の扉が静かにあいて、一人の婦人――武藤女史が辷るやうにしてはいつて来た。女史は再び、静かに扉をしめて、傍の椅子に腰を下した。すると、それを見た吉村女史の顔が土の如くに変つたかと思ふと、よろゝゝと身体を左右に動かし、恰も線香の灰がたふれるやうに、壇上にうつ伏してしまつた。
 生徒はびつくりして立ち上つた。校長をはじめ職員一同は演壇のそばに駆け寄つた。ジエフアーソン博士は一言二言喋舌りかけたが、この有様に、一時呆然として口を噤み、やがて腰をかゞめて、人々と共に女史を介抱しようとした。
 その時いふ迄もなく、わが武藤女史も、その場へ駆け寄つて来たが、吉村女史の気絶した姿を、さげすむやうに見やりながら。
「出来もしない癖に、通訳を引き受けるから、こんなことになるのですよ。」と、誰に言ふともなく可なりに大声で言ひ放つた。ジエフアーソン博士は、驚いたやうに、顔を上げて、武藤女史を見つめるのであつた。
 やがて、人々は吉村女史を吊り出して隣室に運び、暫らくして騒ぎはをさまつた。校長は再び生徒一同を席につかしめ、武藤女史の来たのを幸ひに、女史に向つて通訳を命じた。
 武藤女史はにこりとして壇上に登つた。彼女の頬には勝利の笑が漂つた。物馴れた彼女は、得意げにジエフアーソン博士に演説を促がした。
 演説は始められた。博士は流暢な、はつきりとわかる語調で、幾分か早口に喋舌り、武藤女史は、それを、さわやかな日本語で翻訳した。博士が喋舌る。女史が訳述する。暫らくその状態が繰返されたが、何思つたか博士は突然、
「皆さん」と、よくわかる日本語で始めた。「私の英語が明瞭でないので、通訳のお方によく意味がとれぬやうです。故に私は、むしろ私の不完全な日本語で御話を致さうと思ひます。私は小さい時分に横浜に来て、七年前まで日本に滞在して居りましたから、多少日本語を知つて居ります。然し、大ぶ忘れましたから、きゝづらいかも知れませんが、どうぞ我慢して下さい。」
 決して不完全でない博士の日本語をきいた生徒は一斉に拍手を始めた。拍手は暫らくの間鳴りやまなかつた。その拍手の中には、平素武藤女史をにくんで居る生徒たちの嘲罵の意味がたつぷり含まれて居たことは言ふ迄もなかつた。さうして、その所謂急霰の如き拍手の中を、武藤女史は、生れて始めて広い額に汗をならべつゝ、すごゝゝと引き下つて行くのであつた。(完)

 

底本:「新青年」大正15年7月号