不木の受難

(昭和の部)

(最終更新:2002年8月15日)
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確かいろいろ批評を書いている人だと思う、と紹介に戸惑う 葛西村人氏(評論家?)は・・・
誉めるならもっと言い方があるだろお。大体いつ「臭味も魅力と開き直」ったんだ? この人も以後の展開に不木の医学的グロテスクを期待したようです。でも、外れ。
『疑問の黒枠』の書き出しの物々しさ、小酒井と言ふ人を目の前に見るやうです。既に臭味も魅力と開き直られたんだから、今後の内容の展開にある不気味ささへ感じます。 「マイクロフォン」
(「新青年」昭和2年2月号)

 

一読者の投稿です 大阪・冬夏生氏(?)は・・・
「やめてくれ」の方の批評はまだ未見なのですが、ま、人それぞれということで。
(前略)讀者欄で、何とか云ふ人が、小酒井さんに翻訳物をやめてくれといつてゐるが、僕は、彼の探偵カリング活躍する所のドーゼ物は大好です、どうかお続け下さい。(後略) 「大衆文芸往来」
(「大衆文芸」昭和2年3月号)

 

年号変わってやっぱり登場 甲賀三郎氏(作家)は・・・
『疑問の黒枠』は全8回の連載ですから、この評が書かれたと思われる3月号の時点では第3回まで。「中篇」の入り端くらいでしょうか。甲賀三郎氏、ちょっと先走り過ぎ? この辺りになると彼自身〈本格〉派の雄としての自覚が並々ならぬものになっているのが書評からもよくわかって面白いです。
(以下2000.8.15追記)浅学にして「コムバーゼント」と「ダイバーゼント」の意味が分からなかったのですが、教えて頂きました。convergent「収斂」とdivergen「散開(逸脱)」という数学用語だそうです。やっと甲賀の言いたいことがわかりました。物語があっちへふらふら、こっちへふらふらばかりして、謎が解決の一点に向かって収斂して行かないのが不満だそうです。って、まだ始まったばかりだってば。三郎ってばよう。
不木君の長篇、構想の雄大と叩けば火を発しさうな組立の緻密さに敬服する。但し読者をして五里霧中に彷徨せしめ、仮想犯人を想定するの暇なからしめるのは遺憾だ。この点乱歩君の新聞連載の一寸法師又然りだ。明智小五郎徒らに紋三と読者をヂラすだけで、読者には比へ間違つてゐたにせよ、ある特定の一人に疑惑を集中し濃厚ならしめないのは物足らぬ。我輩は探偵小説は少くとも中篇以後に於いて数学で所謂コムバーゼントでなければならぬと思つてゐる。両君のは些かダイバーゼントである。尤も未だ中篇に達してゐないのなら詫る。 「マイクロフォン」
(「新青年」昭和2年4月号)

 

遂に登場、スランプと闘う悩める巨人 江戸川乱歩氏(作家)は・・・
ついに来たあ、前向きな批評! 乱歩の考える探偵小説の姿が朧気に浮かんでくる感想です。ただ一言付け加えるとしたら、この文章はちと誉め過ぎかと。『疑問の黒枠』をそこまで論理ガチガチの本格ものだと思って読むと驚くと思います。でも、読みたくなったでしょ、『疑問の黒枠』。
小酒井氏の『疑問の黒枠』これは未曾有の大作である。といふ意味は、誰かゞ云つたやうにガツシリと四つに組んでゐるといふ位のことでは足りない。それ以上に一つの重大な特色あることを見落してはならない。探偵的な魅力は実に広い分野を持つてゐるのだが、この作はそのどちらかの端に位するものだ。つまり極端に推理的な興味を追ひ、殆どそれ丈けで終始しようとしてゐる感じがある。少くともこの作の魅力は極端に科学的な所にある。我々が学問の本に興味を持ち、論理的な文章に魅力を感ずるのは、やはり一種の探偵趣味なのだが、その場合には、論理の進め方が複雑であればある程、難解であればある程魅力が大きい。(但しその論理に少しの錯誤もないことを条件とする。その安心がなくては魅力がない。)で、さうした魅力の最左端を追つたのが、この小酒井氏の長篇であるといつていゝ。この位緻密で論理的科学的な記述は外国にも例がなからう。同じ雑誌のドイルにしろビーストンの長篇にしろ、同じ傾向でゐて、比べものにならない程散漫なのを見よ。だが、散漫といふことはユトリといふこと、ユトリのない点がいゝと云へない。小酒井氏の長篇の弱味はこのユトリといふか、筋の装飾といふか、甘みといふか、そんなものが少しく不足してゐる点だ。めまぐるしき論理の進行に、読む者は疲れを覚え、それを救ふオアシスが中々来ないことだ。併し僕一個の好みから云へば、このユトリのない点、複雑極まる論理の進行そのものに、云ふに云はれぬ甘さを感じてゐるのだが。それはむづかしい学問の本を一行々々読みこなして行くあの甘さを同じものだ。大家の投げやりでない苦心の程に頭を下げる。 「マイクロフォン」
(「新青年」昭和2年4月号)

 

評論家だよねえ、確か? 小舟勝二氏(評論家?)は・・・
絶賛。手放し。たまにはこういう評価もないとねえ。いいぞ小舟。
▼血友病 小酒井不木
文学的に見て、甲賀氏の「敗北」以上に手ぎはよくまとめられた作品である。そして筋も充分私達を失望させないだけの嶄新さはある。
十二枚ものには勿体なさ過ぎる材料を、あれだけにきつちり圧搾したところ、然も猶、釈々たる余裕を見せてゐるところ、大家たるを恥ぢないものがある。
此の作品は、今月での目ぼしい収穫の一つである。
「八月探偵小説壇総評」
(「探偵趣味」昭和2年9月号)

 

この年の「探偵趣味」誌のレビュー担当だったようです 小舟勝二氏(評論家?)は・・・
「或る自殺者の手記」のレビューはギャグがすべってます。どうしようもないです。「死体蝋燭」意外と好評のようです。この「玄人」の中に、鮎川哲也も入っているわけですな。
▼或る自殺者の手記 小酒井不木
文士の自殺が敏感な探偵作家の頭に何事かをもたらしたのか、自殺者と遺書を取扱つたものが、今月は六篇あつた。ところで、探偵作家の取扱つた自殺者の遺書と云ふものは、大抵の場合恐しく立派な探偵小説になつてゐるものだ。「或る自殺者の手記」の、加藤と云ふ医師は自殺するよりも探偵作家になつた方がよかつた―何故なら、一流の週刊雑誌に掲載されて少しも見劣りがしないではないか(!?)

▼死体蝋燭 小酒井不木
素人をも玄人をも無性に喜ばせる絶品、前者にはトリツクが、後者には題材と描写が、すつかり気に入つてしまふ。
「十月創作総評」
(「探偵趣味」昭和2年11月号)

 

この人も今となっては“幻の” 瀬下耽氏(作家)は・・・
イヤミ? しかしまあ、大作『疑問の黒枠』の後だし、よしとしておくか。
『見得ぬ顔』事件よりも一、二、三節迄の大論述が読みものです。作者は、この大あたまを活すために小さき尾を添へられしや。果又、尾をなして後、形を創るに巨頭を附されしものか。非ずか。 「マイクロフォン」
(「新青年」昭和3年2月号)

 

探偵小説作家〈人情系〉といえばこの人、のちの探偵作家クラブ会長 大下宇陀児氏(作家)は・・・
あっさりした感想のように見えますが、最後の一言の鋭さに度肝を抜かれます。不木の通俗性と論理性の相克をさりげなくえぐるような指摘ではないですか。凄いぞ、大下宇陀児。
小酒井氏の『見得ぬ顔』と同氏の『遂に鐘は鳴つた』
前者に就いては、読んでゐるうちに頭が下がつた。最後のトリツクはいけないかと思ふが、類と真似手のない作である。ところで後者は、これはサンデー毎日にあるのだが、読んで了つて腹が立つた。ナンセンスストーリーならばナンセンスストーリーらしく書いた方がよくはなかつたか。小酒井さんのもので、この二つ程目立つた対照をなすものはない。が然し考へる。これを髷物にしたらどうだらう。恐らく大したものになるのである。ここに、探偵小説家の並々ならぬ苦痛がある。
「マイクロフォン」
(「新青年」昭和3年2月号)

 

ブレイク譚などでおなじみ  浅野玄府氏(翻訳家)は・・・
「ドチャマケ」! とにかく凄い肩すかしをくったわけですね。今度から僕も使おうかな、「ドチャマケ」。しかしこの人も難しいことをさもたやすく言っておりますなあ。「どうでせう?」って、そんな味に仕上がった作品がそうそう簡単に作れるわけがないだろう。しかし何が面白いといって、作者不木を〈社会派〉に開眼したものと勘違いしながら読み進めて「ドチャマケ」ているところなんか、「君の読み方のほうがバタバタなんだよ」とツッコミたくなります。
小酒井さんの『見得ぬ顔』を新年号で拝見して感じたことですが−例によつてテーマ題材の卓抜さと結構のうま味とには感服させられましたが、しかし今度のやうな作でまでやはり結末をあゝした、みんなが急にバタバタ駈出すやうなひつくり返し式のそれにしなければならぬでせうか? 今度の作では読んで行く上の感銘からいふと(今度の作では作者の筆に意外に人間としての真剣味、熱があり、作者も庄司弁護士と共に社会の正義のために立つといつたやうな気概が感ぜられたりするので)読者は最後にあゝいふひつくり返し式の落ちを与へられたのでは、実際ドチャマケしてしまふと思ふのですが。どうも頭と尻尾が違ふやうに思はれます。
かういふ作はやはり結末をもつと素直に(しかし線は太く)、つまり西洋の探偵小説的興味のある文芸作品などに見られるやうな、もつとつくらない、しかも多分の劇的緊張味を持つといつたやうな、あゝいふ味のものに締上げたら、と思ふのですが、どうでせう?
「マイクロフォン」
(「新青年」昭和3年2月号)

 

登場最多はこの人で決まりだろう 甲賀三郎氏(作家)は・・・
ネタ漏れレベル:★★★
ああせい、こうせいとネタを割りまくり。未読の方いつもすみません。ホントにもう、三郎には困ります。
最初の二行で「ああ、甲賀三郎は不木の理解者だ」と思ってはいけません。「只〜」のあとの注文が五月蠅いったらもう。全然、只じゃないじゃん。しかも自分でこれはこう、そこはそう、と注文を出しておきながら「筋を割る恐れが生じる」ときた。ちょっと愉快なモノローグ的批評。
小酒井不木君の見えぬ顔は堂々たる大作だ。鳥渡論文を読むやうな所があるが、思ひつきは全く素晴らしい。誰でも思ひつきさうな事で、中々さうではない。熱と力も十分である。只難とする所は、弁護士が女の話を真実と思ひ込む、之が全編の骨子で、十分首肯できるが、女の方が、可成り聡明な女でありながら、弁護士の態度から、何故自分の思ひ違ひを悟らなかつたらうか。尤も女は先入観に捉はれもので、弁護士を犯人と思ひ込んで、そんな余裕がなかつたのだらうが、それならそれで、もう少し女に皮肉な態度があつても好い。犯人はお前ぢゃないかと云ふ所を匂はして好い。尤もさうすると筋を割る恐れが生じる。兎に角、女の態度が真剣なだけに、読後鳥渡さうした矛盾を感じる。 「マイクロフォン」
(「新青年」昭和3年2月号)

 

名のらぬから誰だかわからない 名乗らぬ男氏(?)は・・・
そうかな?
屍を―何だか、牧逸馬式のものを真似た感じがした。所で、何處迄が不木氏のかと言はして貰ふならば四二頁下段三行目迄と、四三頁上段別行以下。即ちその間は、乱歩氏のものと推定。 「新年号妄評」
(「探偵趣味」昭和3年2月号)