不木の受難

(大正14年〜大正15年6月の部)

(最終更新:2002年8月15日)
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??? 誰? 寡聞にして存じ上げません、 蜂石生氏(?)は・・・
いきなり嫌味? 「探偵趣味」誌は同人誌的傾向が極めて強いので、この人もおそらく同業者であろうと思いますが……具体的でない批判は単なる好悪の表明でしかありません。「短剣集」ですか。いろんな人を刺してるんだろうなあ。(残念ながら不木の分しかメモしていないので忘れてしまいましたが。)
小酒井博士の探偵小説は、同氏の雑文よりは面白くないものが多い。でも、九月号「新青年」の「遺伝」はよかつた。同じ九月号「苦楽」の「二人の犯人」よりは―、短いだけでも助かる。 「短剣集」
(「探偵趣味」大正14年9月号)

 

この人の批評は兎に角優しい(当時) 江戸川乱歩氏(作家)は・・・
それは少しではなく、小説としては重大な問題だと思う。不木の文章はわかりやすいが作品によってはまるっきり詩的でも文学的でもないのですよねえ。そういえば「新青年研究会」の浜田雄介氏が「不木と通俗」についての論文を書いていて、何か「わかりやすさ」についても言及していましたっけ。いずれ参考文献として紹介したいと思います。
○最近感心した作品
 小酒井氏の「遺伝」。何とまあすばらしい材料だ。恥しながら法律にくらい僕は最後の一行まで引ぱられた。そしてギヤフンと参つた。本をとぢて暫くうたれてゐた。すると、ハツと思出したのは表題だ。なる程「遺伝」だなと、もう一つ参つた。たゞ、思出して見て少しばかりの遺憾は文章が、余りに筋を運ぶ丈けのものだといふ点だ。
「雑感」
(「探偵趣味」大正14年9月号)

 

不木と同郷でのちには「耽綺社」同人にさえなる 國枝史郎氏(作家)は・・・
『闘病術』『殺人論』の作者も「素人」呼ばわりは、文壇の先輩としての意地か、それとも単なる性格か・・・? 「学者の余技」と、流石は大衆文壇の寵児國枝史郎、覇気と自信の一喝。
小酒井不木氏は『手術』を書いて、素人の域から飛躍した。しかし『遺伝』に至つては、学者の余技たる欠点を、露骨に現はしたものである。『犯罪文学研究』は、西洋物ほどには精彩がない。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正14年12月号)

 

のちの「新青年」編集長、若き日の 水谷準氏(作家)は・・・
明らかに氏は不木作品に医学的グロテスクを求めてるぞ。「空想的犯罪生活」ですか・・・趣旨はわかります。しかし文壇仲間を片端からそんなモンに誘ってたら嫌われますよ。
で、不木本人はと言えば、どんどん医学的グロの世界とおさらばしてゆくのです。それが期待外れだったのか、それとも開眼だったのか・・・それは神のみぞ知るということで。
末梢神経の上だけでなく、空想的犯罪生活に、もつと浸り切らねばならぬのが、日本探偵小説の急務らしく思はれてなりません。材料や筆が劣つてゐるのではなく、この犯罪生活をやつて見ない無精があるからではないでせうか。小酒井博士が有余る材料を、空想的犯罪生活の中に愛用してはゐないような無精さがある、とは云へませんか。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年1月号)

 

同業者であり〈本格〉派の雄、 ペンネームKOGAこと甲賀三郎氏(作家)は・・・
 ネタ漏れレベル★★★。
この人に対して、「じゃ、君はどうなんだ」と言うのはタブーです。だって〈本格〉派の雄なんだから。
冗談を抜きにして言うと、これが不木の医学ミステリに対するマイナス評価の代表になります。「煩悶」のない超人的登場人物の問題・・・悔しいのはその鋭い指摘をしたのが甲賀三郎だった、という一点です。
『手術』に声名を得た小酒井氏の『痴人の復讐』は遺憾ながら頂戴出来ません。復讐の為めに患者の健眼をくり抜かせて、手術者を自殺さし、一石に二鳥を得ると云ふのですが、只空恐しい事と云ふ感より外はありません。主人公が大それた事を何の自責の感なしでペラペラと述べてゐるのも不愉快です。主人公の心理にもう少し煩悶はなかつたのでせうか。異常精神と云へばそれ迄ですが、それならそれで、始めからトリツクなど隠さずに、患者の健眼にズブリとメスが這入つた時の悪魔的快感の描写がして欲しかつたと思ひます。最後の意外さを保つ為めに、トリツクを隠したは、戦慄と意外との二つの効果を追つて、遂に一つを得なかつたものと思ひます。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年2月号)

 

横溝正史の友人にして「新青年」誌上に翻訳を発表している 西田政治氏(翻訳家)は・・・
乱歩礼讃。しかし不木ミステリの至宝「恋愛曲線」をもってしてもこの評価。先入観なのでしょうか? 「不木博士」と「乱歩君」だからなあ・・・。どっちに共感してるかは聞かんでもわかるなあ。
不木博士の『恋愛曲線』と乱歩君の『踊る一寸法師』私はどちらも感心して読み了つた。そして不木博士の探偵小説と乱歩君の探偵小説との歩んでゐる道をハツキリ見せられたやうな気がした。医学博士と云ふ不木氏は自己の専門知識を利器として到底そこらの若輩が及びもつかぬ有利な立場に固く足を踏みしめてゐる。だからどことなく学者らしい固苦しさが脱けてゐない。乱歩君は自分の探偵小説を立派な文学的圏内にまで進み入れようと精進一心に創作してゐる。だからどことなく文学的(?)な歩みを確固と続けて居るやうだ。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年3月号)

 

当時デビューしたての若手作家であり「新青年」の編集者でもあった 横溝正史氏(作家)は・・・
非道い・・・。趣味の違いと言ってしまえばそれまでだけどさ、でも「人工心臓」は読んでくれよ。
上記のような血気溢れる若者、横溝正史君ですが、後日単行本『恋愛曲線』刊行の折には「嘘だあ〜」といいたくなるほど変節した推薦の辞を献上しております。ま、よくある事だよね。
『手術』を読んだ時には沁々と敬服した。『痴人の復讐』を読んだ時にはハゝア又だなと思つた。『難題』を読んだ時にはおやおやと思つた。『恋愛曲線』ではあゝ又かとうんざりした。『人工心臓』は読む気にもなれない。これは作その物の良否ではなく、作に盛られた世界が、あまり自分とかけ離れてゐる為に誤魔化されてゐるやうな腹立たしさを感ずるのだ。小酒井さんの作品が、研究室を出ない限り、今後如何なる名作が出ようとも私には感心できないだらう。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年3月号)

 

「新青年」の熱狂的(かどうかは知らんが)読者の 河口美致枝嬢(家事手伝:嘘)は・・・
(※前後の他作家に関する評価部分は割愛しました。)
ここでも「小酒井博士」かい。傑作「恋愛曲線」「人工心臓」に関する感想だということが見え見えなだけにファンとしてはつらいなあ。ああ、確かに専門用語ばしばし、手術マニュアルみたいな文章満載さ。(開き直り。)その冷め切ったように見える男の心の奥底に燃える情念みたいなモンが、お嬢さん、あんたにゃわからねえんだな。ふっ。(八つ当たり。)
(前略)小酒井博士の作は化学書でも読んでる様(後略) 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年3月号)

 

今じゃ誰も知らないが、当時のメディアじゃよく見る名前の 松崎天民氏(評論家)は……
変な日本語。具体性のない批判はただの好き嫌いと一緒。どこに何が「落着く」のか、ちゃんと書いて欲しいよね。乱歩と並べられて日本代表になってる所が救い。
日本の創作には江戸川乱歩、小酒井不木―善くても、まだまだ駄目だ。何だか皮相的で、好奇的で、衒学的で、落着く所に落ついて居ない。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年3月号)

 

一読者の投稿です 遠方林三郎氏(?)は・・・
この人は……随分現代的な読み手ですねえ。
(前略)「人工心臓」はいゝものです。時代精神たる研究的態度がうかゞわれていゝ。それにある不成功に終つたといふ人間への暗示は高く買ひ度い。(後略) 「大衆文芸往来」
(「大衆文芸」大正15年3月号)

 

不木を守れ! 君だけが頼りだ、の 江戸川乱歩氏(作家)は・・・
不木の作風への嫌悪感を全く持たない代わりに、描写力への注文が一番多いのは誰あろう乱歩です。本格だの変格だの芸術だの通俗だのと五月蠅い業界ですが、こういうところから、乱歩が探偵小説の小説としての部分を味わいたがっているということが良くわかって面白いのです。
小酒井先生の「恋愛曲線」の前半を講義式で面白くないといふ者がある。僕は正反対だ。あすこが面白いのだ。様々な科学的操作によつて心臓を体外で生かせる。心臓が何んとやらの溶液の中でコトゝゝと獨りで動いてゐる。何といふいゝ味だ。あれが面白くないといふ人の氣が知れぬ。又ある者は嬰児を食ふのが汚いといふ。僕なんか汚いとは思はぬ。ある戦慄を感じる丈けだ。そして、それが作者の狙ひ所だ。あれでちやんと成功した作品だ。小酒井先生が右の様な批評を氣にして、作風を換えられるとか伝聞したが僕としては賛成出来ない。もつとゝゝゝあゝいふ世界を材料にして、我々を怖がらせて貰ひたいと思ふ。たゞ描写が今一段洗練されることは望ましい。といつて僕の描写が先生をしのぐなんていふ意味では決してない。理想を目安にして物を云つてゐるのだ。これ亦誤解する勿れ。 「病中偶感」
(「探偵趣味」大正15年4月号)

 

褒めたいが褒めきれない、ああもどかしい、の  國枝史郎氏(作家)は・・・
 ネタ漏れレベル★★★。
「?」の印が押されては、褒められているとは思えませんね。イマイチ! と言いたかったのでしょう。
小酒井さんの「肉腫」といふ作(新青年掲載)依然して結構な作品です。探偵小説的加工の無いのが、一つの特色を為して居ります。如何にも有りさうな事件と云ふより有つた事件を有りのまゝに纏めた―かう云ひ度いやうな作品です。医師その人に成心が無く、威嚇的で無かつたといふことも、この作品を快くしました。一種微妙な人間性を、直裁簡潔の筆で描き、醒氣を紙面へ漲らせたのは、小酒井さんとしては常套手段、それでゐて矢張り結構であります。たゞ末段に至りまして、手術をされた人間が、肉腫への憎悪に夢中になり、自分の腕の切られたのも忘れ、その腕を出せといふあたり―この作中での性念場―そこが余りに略筆され、些か明瞭を欠きましたが、併し是は私の頭がひどく其時疲れてゐたので意味取れなかつたのかもしれません。で「?」この印を記して置きます。 「二つの作品」
(「探偵趣味」大正15年4月号)

 

またまた登場、探偵小説文壇の一言居士 甲賀三郎氏(作家)は・・・
(※途中部分を割愛しました。)
だ、か、ら、「じゃ、君はどうなんだ」は・・・禁句か。でも、この文章の批判は的を得ているなあ。けなしっぱなしじゃなく、不木の長所・短所をきっちり評価している。「煩悶がない」「超人間」の問題がここにも出て来るのです。しかも最後の一文には含むところが多いですよ、探偵小説研究者の皆様。
探偵小説の生命は独創と新奇とである、各の作家は各の独創と新奇とを持つてゐる。が往々にして彼等は自己の編み出した独創と新奇の鋳型に陥り込んで終ふ。(中略)小酒井不木氏も鋳型に溺れんとする危険さを見る。『手術』に始まり『恋愛曲線』に高潮に達した氏の世界は追随を許さざる創意と驚嘆すべき珍奇が充満してゐた。だが吾人は倦き易い。新奇は遂に新奇でなくなり、創意は漸く硬化を始めた。
思ふに不木氏は透徹明快なる頭脳と鐵の如き意志の持ち主である。その為めに氏の世界には煩悶がない。不木氏の用ふる主人公は尽く超人間である、常人のなし得ざる所を平然と且つ敢然と成し遂げる。『手術』然り、『痴人の復讐』然り、『秘密の相似』然り。吾人の不木氏に望む所は超人の強さに配するに凡人の弱さを以つてせん事である。近代人の神経は強き刺激を求むる一面に哀むべき弱さがあるのである。
「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年5月号)

 

M・ルヴェル翻訳で(少なくとも一部では)有名な 早苗生こと田中早苗氏(翻訳家)は・・・
 ネタ漏れレベル:★
最後の一文がいいですね。まさに印象批判の例文のような感想です。しかも自分の勝手な思い違いを作者のせいにしてるし。不木が彼の訳したM・ルヴェル『夜鳥』(よどり、と読んでね。)に捧げた「夜鳥礼讃」の熱烈な讃辞を思うと、ルヴェル第一人者からの感想がこれではあまりにかわいそうなのです。で、クレーゲル「ソクラテスの死」って何でしょう? 皆様ご存じですか?
『安死術』(不木氏)前の四頁は博士の序講、後の三頁が短編といふ形で而も失敗の作。私はひそかにクレーゲルの『ソクラテスの死』のやうな内容を予想しながら読んで行つたが、読み了つて変な顔をした。あれを書くのに安死術についてあんなに多言を費した作者の心持が判らない。『秘密の相似』−一寸いゝ作だ。女の進んだ意識が結末で電光の如く閃くといふトリツクは沈着な筆つきによつて可成り利いてゐる。文子は感情の稀薄な女だ。私の同情は寧ろTに傾く。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年5月号)

 

〈不健全派〉の名付け親、ラディカルな発言が推理文壇を襲う 平林初之輔氏(作家/評論家)は・・・
 ネタ漏れレベル:★
こちらも「趣味に合わない」とけんもほろろなお言葉。平林がこの「陰酸」「残酷」を〈不健全派〉にカテゴライズしたのは当然と言えば当然のような・・・。この〈不健全派〉、よく不木に貼られたレッテルとして不木を再評価する際に槍玉に挙がるのですが、これだけの人から「残酷」の何のと思われている作風は、どうフォローしたところで健全なんぞと呼ばれるわけないと思うのですが。何にせよこの大正15年5月号での不木作品の評判の悪さにはさすがに悲しくなります。
『安死術』『秘密の相似』−小酒井不木作。どちらも陰酸な作だ。ことに、『秘密の相似』の方は、あまり陰酸すぎるやうに思ふ。二人とも網膜炎であつたところでとめといた方が、ユウモラスな味があつたではなからうか。女の復讐が必要以上に惨酷で、作者としてはくどいやうに思ふが。『安死術』の方も継子いぢめがあまりに深刻で、『仙台萩』の政岡の場でも見るやうな印象を与へられる。『安死術』といふやうな新しい名前には新しい犯罪がつりあふやうに思ふが、これは僕一人の考へかもしらん。 「マイクロフォン」
(「新青年」大正15年5月号)

 

合評です。参加者は、 延原謙・江戸川乱歩・甲賀三郎の三氏です。
その「本日の威観」を載せずして何の合評か。わけがわかりません。大体おわかりになると思いますが、乱歩の趣味は人とちょっと違うようです。ま、大雑把に言えばそれが〈不健全〉〈変格〉傾向に対する寛容さなわけで、不木作品はそうした傾向の代表作だったりする、という位置づけになるわけです。
桐の花 小酒井不木作。
(延原)この作者の他の作は余り好まぬけれども、この作は僕の非常に好きなものだ。以後斯の如き作は、常に読みたい。
(江戸川)大変面白く読まされた。作者は探偵趣味が欠けてゐると云つてるが、鋸の間違ひなぞ氣が利いてゐる。
(総評)結末が假令常套的でも、この作者にこの種のものを、今後屡々望みたいものである。

印象 小酒井不木作
(江戸川)五月号「桐の花」の方を寧ろ採りたい。結末のトリツクが常套であるだけに、期待程に利かない憾みがあつた。
(甲賀)作者の斯ういふ傾向には賛し得ない。
(輔記)小酒井氏の作毎に現はれる異様な冷たさ、残酷さに対して、非常な議論と、多少の非難があつたが、明細に筆記し得なかつたのは残念である。甲賀氏其他諸氏の意見と、江戸川氏独特の異論は、蓋し本日の威観であつたが。
「探偵小説合評会」
(「探偵趣味」大正15年6月号)

 

この方も作家でしたでしょうか?  山下利三郎氏(?)は・・・
 ネタ漏れレベル:★★★
正誤表なんか出さないだろ、恋人同士が。軽いタッチの恋愛遊戯「桐の花」、作者の意図に反して概ね好評です。めりけんじゃっぷにかかると「ヘンな言葉づかい」な若い女性の描写も、山下利三郎は微笑しています。センスの違いってあるもんですねえ。
桐の花=小酒井氏
若い男女の感情の遊戯を取扱つたこの作は、やはり小酒井氏の感情の遊戯だつたか。春雄が欺かれて、千恵子を殺して自分も死ぬ決死をする件や、女が手紙の正誤表を出すなんか、近頃の若い人達の恋の中にさうした心持の假令聊かでも、見出し得やうかと考へさせられる。
何となく少女小説めいた会話等を見て、小酒井氏はよくよく色んな事を書く人だなと、私をして快く微笑させたのです。
尤も氏自ら篇の終りに斷りがきを添へてゐられるのだから、この作品を持出して突込んだ批評することも遠慮せねばならないのが当然でせう。
「五月創作界瞥見」
(「探偵趣味」大正15年6月号)