『医家芸術』 2月号
江戸川乱歩ののこした「探偵小説四十年」の大正十四年の項をみると、(中略)「十月三十一日」の項につぎのごとき記述がある。神戸の横溝君と同伴、朝の汽車で名古屋に行き、小酒井さんのお宅を訪ねる云々。
(中略)汽車が大垣を過ぎるころ、乱歩がとつぜんいいだした。
「名古屋で途中下車をして、小酒井さんのところへ寄ろうと思うがどうだろう」
それでは約束がちがうとは私はいわなかった。私はただ唯々諾々、ただ命これしたがうのみで、フラフラッと乱歩につれられて途中下車し、フラフラッと小酒井先生のところへお伺いした。それが先生との初対面だった。
胸の疾とたたかいながら、毎月ボウ大な量の原稿を消化していられた先生のことだから、うちになみなみならぬ闘志をひめていられたのだろうが、一見温厚そのものであった。私もいままでいろんな人とつきあってきたが、小酒井先生のような温顔のもちぬしに、いまだかつて接したことがない。
『医家芸術』 2月号
昭和元年か二年だったと思う。小酒井先生が私にいわれるには、ある女性が喫茶店をはじめたいといっているが、適当な譲り店はないだろうかという話である。まことに唐突な話であるが、(中略)
問題はその買収費の八百円である。今でこそ八百円ではビフテキも食べられないが、当時の八百円は相当な額である。先生もそんな大金を常に所持しているわけではないから、北海道庁発行の千円券地方債一枚を私に渡して、これを彼女に渡してくれと命じられた。
私が怪しいぞと感じたのはこの時である。これほどの大金をタダの女に与えることもおかしいし、その喫茶店の位置が耽綺社の集りによく利用された寸楽の近くでもあり、先生の家からもさほど遠いところではない。これは少々臭いと私が見たのも、根拠のない岡焼きばかりではない。それに彼女は当時三十七、八歳の女盛りで、痩せ型ではあったが美人の上に、いわゆる“文学少女上り”といった名残りがあったばかりでなく、当時作詩を試み自費出版をしたこともある。
思えばあの頃の先生は、声名も日にあがり健康もよく、何不足ない時代であった。探偵小説の執筆のほかに、市内の若い医学徒を集めて指導されていたのも、その頃である。自宅西側には研究室も新築され、ゆくゆくは医学分野にも野党的存在として一ト旗上げようという野心があったのではないかと私は見ている。(中略)
おそらくこの時代――三十七、八歳の時代の先生は、人生で一番充実もし、また楽しい日日であったろう。そうしたとき、はからずも異郷の地で知った女性が訪問し、その苦衷を訴え、援助を求めたとしたら、誰でも一応胸を叩く気になるだろう。ましてその女性が、自分の好むタイプであってみれば。
以上は昔ばなし。これからはニュース。小酒井不木先生の生誕地は“東海の潮来”といわれる水郷蟹江町(名古屋市外)である。現在生家はなくなっているが、この里の鹿島神社に最近不木句碑が建立された。この奇特な俳人黒川巳喜氏(実は建築家)は今をときめく新進建築家黒川紀章の実父で、われわれ「ねんげ句会」の同人である。小酒井先生はこの蟹江町の生れであると共に、われわれ「ねんげ句会」の創立者でもあったからだ。
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小酒井(中略)大学を出て洋行する頃には母親が亡くなっていたもんですから、財産を自由にできたんですね。その当時は結婚しておりまして、外国で病気をして療養したりしたもんですから、ものすごく金がかかりましてね。
椿 外国で発病ですか。
小酒井 ええ、アメリカからロンドンに渡って発病したわけでございますね。だから、蟹江の方にいわせますと、小酒井さんは洋行中に財産を皆使っちゃった……。(笑)
中島 第一次世界大戦後、ヨーロッパからいろんな主義思潮がもたらされているでしょう。日本の読物があの時期に一新されたわけですね。それまでは、せいぜい講談か新講談でしょう。むこうのものを取り入れようという気運が非常に盛んだったんです。それにむこうで暮した方々ですから、従来の枠にとらわれない読物を生み出そうという意欲があったんです。あの時代の大衆文学は、純文学出身の菊池寛、久米正雄も新聞小説を書くようになった時代ですからね。その点、医学者から出たというのはおもしろいですね。森鴎外や木下杢太郎がありますけど、あの人たちの業績は医学に直接結びついてはいないでしょう。ぜんぜん別の世界ですね。不如丘も不木も、医学を土台にして読物をつくった、これははじめてですね。関東大震災前後というのは、ひとつの……。
椿 エポックだね。
中島 医学界の人が読物を書くようになったきっかけはあの時期だと思います。
椿 不木先生は探偵物をうんと読んでいる。探偵小説も読んでいるし、探偵実話も読んでいるし、毒薬も、殺人も読んでいる。だから、松本清張はいってますよ、不木先生のものは、探偵論説、探偵実話、ああいうもののほうが値打ちがあるとね、小説よりも。あれは日本における画期的なものですね。その前まではああいうもの書いた人はないんです。その踏み出しをなされたんです。
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私が不木先生といささかの交際も無かったにもかかわらず、あえて一文を草する所以は、最近の探偵作家に見られぬ学問及び芸術に対する情熱を書きたかったからです。その渉猟されたる書物の量たるや枚挙に遑なく、その知識の豊富なる、我々の遠く及ばざる所なのです。
『医家芸術』 2月号
不木氏の作品もそうだが、他の人のものも、探偵小説の中に、一種の今すんでいる世界と違った世界を現出して見せてくれたものである。
現実離れしていると軽蔑してはいけない。
このことは、小説というものの一つの大きな特徴、特に、探偵小説を含む大衆文学の要素ではなかったか。
『医家芸術』 2月号
昭和十三年頃だったか、我々は、東北から転任されたばかりの太田正雄教授(木下杢太郎)をかこむ会をもっていた。先生の名付けによって「時習会」とよんでいたが、この会に、私は、秀才のほまれ高い(後輩の)新入生を一人引っぱって行き、杢太郎に紹介した。
「小酒井不木の息子さんです」
現、小酒井望順天堂教授である。
とたんに、杢太郎の顔色が不審そうに変った。やがて――いつもの渋い顔が笑いでいっぱいになり、うれしそうに、いかにも懐かしそうになったのである。
「あんたが、小酒井さんの……」
『医家芸術』 2月号
不木は、私の恩師名大の三輪誠教授と愛知一中、三高、東大と同級であった。その文才は、もう中学の頃から驚く程のものがあったらしい。その頃愛知一中は、名校長の名も高く、また「マラソン王」とも言われた日比野寛先生の時代で、毎年全校生徒の作文コンクールが行なわれた。「小酒井は全校通じて毎年一等で、これだけは勝てなかったなァ。昔、彼の家に遊びに行った事もあるが、何でも割合大きい川を渡った所だった事を、今も覚えているよ」と言われた。
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我が医界に於ても正木、小酒井両先生の全集など再版されるような機運を醸成御尽力賜わらば幸甚と存じます。
『医家芸術』 2月号
指折ってみると今年は不如丘先生の死後十周年目でありまた不木先生の四十五周年目に当る。それを機会に「不如丘と不木」回想号と考えたわけではなかったが、編集委員一同が考えた回想号が偶然そのような年まわりになったのも何かの因縁かも知れない。それにしても寄せられた皆さんの玉稿を拝見して、まことにすばらしいものぞろいでおどろきいっている次第で、ご執筆くださった皆さまにはお礼の申しあげようもない。探偵小説界の大御所横溝さんが進んで玉稿を寄付してくださったことは望外の喜びであり、いまは亡き不如丘・不木両先生へのよき手向けとして感謝に堪えない。武見さんが不如丘先生を高く買っていられたことは木々高太郎さんが不如丘先生を高評価しておったと同様、ぼくのおどろきである。これは読者の皆さんにも銘記しておいていただきたい。不木先生に親しく接しておられた岡戸さんの不木先生アネクドートは岡戸さんならではの好読物となり必読をおすすめする。アンケートも興味ある両先生の逸話に富み、ご寄稿願った皆さんにお礼を申しあげる。アンコール小説は、不如丘先生のものは比較的新しい先生の俳句趣味作品、不木先生のものは初期に属す代表作を選んで皆さまの回想の一助とした。
(中略)この不如丘・不木回想号は座談会ともども後世に残る立派な文献と信じる。(後略)
『麒麟』 第弐号 3月1日発行
小酒井不木は日本の探偵小説作家の裡では文人趣味の濃厚な人であったろう。その俳句に限らず、絵をよくし、書も巧く、篆刻もやり、収書の味を解した。四十(当世流に算すれば三十九)を以て世を辞した人としては天晴れな老熟家ぶりである。
小酒井不木は最初探偵小説の愛好家として現われ、啓蒙家、研究者として大成し、転じて創作家として一家を成した。その全期間を通して不木には指導者としての面影が色濃く滲み出ており、大衆文芸の成立期に大きな影響を及ぼした。
乱歩の一文に「小酒井さんは探偵小説の大衆化を計った」というのがあるが、不木は探偵小説をせまい枠に閉じ込めないで、広く大衆への周知方を企図した最初の人であった。二十一日会への参加も、乱歩のように、矛盾を抱いて止むなく、というのではなく、あっさりしたものであったろう。“一大王国”を創るの闘志を以って、探偵小説を大衆文芸の大きな世界へとけこませることを、一つの仕事と感じていたようだ。
小酒井不木は昭和四年四月肺炎で急逝したが、その企図した探偵小説の大衆化、あるいは探偵王国の構想は、後継者江戸川乱歩によって実現をみた。不木以って冥すべしである。
乱歩は、病と闘いながら短い歳月の間に多くの業績を残した不木のような探偵作家は世界にその類例がない、といい、低俗視された探偵小説を最高学府の教職にあった不木が敢然と書いたことによって、探偵小説の品位をたかめ、作家を大いに刺戟した、と頌したが正鵠を射た評である。
『小説推理』 第13巻第5号 双葉社 5月15日発行
不木の専攻した血清学は、医学の中でも比較的新しい分野であった。その進歩には優秀な想像力が必要だったが、想像力の養成のために探偵小説を読んだといい、またお蔭で多大の利益を得たといっている。
そういう不木の読書態度と信念は、また犯罪学の研究の資料を豊富に加えることになった。そして病中とも思えぬ精力的な執筆意欲を示すことになる。
『大衆文学大系30 短篇集・下』 講談社 昭和48年10月20日発行
『大衆文学大系30 短篇集・下』 講談社 昭和48年10月20日発行