『現代のエスプリ 死との対話』 至文堂 2月20日発行
小酒井光次博士、号不木。東大医学部を出て、生理学・血清学を専攻、大正六年東北帝大助教授として米欧に留学中、肺患を発し、大正九年帰朝、教授に任ぜられたが、病気のため赴任し得ず辞任、名古屋にあって病を養いながら、犯罪学研究、探偵小説、随筆等の執筆に専念しているうち、昭和四年急性肺炎のため急逝した。数え年四十であった。専門書以外の著作は小酒井不木全集十七巻にまとめられており、「タナトプシス」はその第十一巻の二百七十頁を占めている長篇の随筆であるが、若くして逝った博士の博識の一端をよく示していると思う。(中略)博士の療病体験に基づいた“闘病術”も広く読まれたものの一つである――療病は闘病だけでよいかどうかにはいろいろ議論もあるかもしれぬが――。
『随想 鼠の王様』 東峰書房 昭和44年6月5日発行
→『推理界』昭和43年5月号
『大衆文学五十年』 尾崎秀樹 講談社 10月30日発行
『タナトプシス』は昭和三年六月に刊行された。作者の小酒井不木(本名光次)は、乱歩とならぶミステリーの草わけであると同時に、東北大学教授(実際には病気のため、ほとんど教鞭をとれなかった)で、衛生学を専攻した医学博士でもある。ロンドン滞在中の無理がたたったのか、胸を患って帰国し、静養をつづけながら、推理小説や犯罪文学研究にしたがった。
『タナトプシス』など、生と死の問題にふかい関心を寄せたのも、その病弱からきている。
『大衆文学五十年』 尾崎秀樹 講談社 10月30日発行
この二人が出会ったのはパリにおいてである。不如丘はパストゥール研究所へ通っていたが、不木も一足おくれてパストゥール研究所へ行くことになる。肺尖カタルを病んでしばらく湘南地方で療養生活を送ったことのある不木は、健康を回復していたのだが、ロンドンの霧にあてられたのか突然喀血し、小康状態を得てパリへ移った。大正九年春のことだ。しかしふたたび喀血におそわれ、不木のパリ生活はほとんどベッドに呻吟することになった。その間不如丘はよく見舞いにあらわれ、岡本綺堂の「雨月集」などを送ったという。
『推理小説研究』 第7号 日本推理作家協会 12月15日発行
床の間については前述したが、その横に違い棚があり、先生が「蜘蛛男」を執筆されたとき、講談社から記念品として送られたという古風な置き時計が載っていた。また境の襖の上にある鴨居には、小酒井不木の書になる「子不語」という横額が懸けてあった。