参考文献/資料集 1964(昭和39)年

(公開:2008年1月1日 最終更新:2017年11月10日)
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8月

『日本推理小説史 第一巻』

中島河太郎 桃源社 8月5日発行
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 中でも力作は「毒及毒殺の研究」(大正十一年十月―十二年一月)、「殺人論」(同十二年三月―十一月)と、「犯罪文学研究」(同十四年六月―十五年六月)で、それぞれ二五二枚、六四三枚、六八二枚に及ぶ研究で、「新青年」に連載された。
 これらは単なる通俗法医学の紹介ではなかった。東西の文献や伝説、事実譚に例証を求めながら、極めて興味深い叙述を工夫しており、特に文芸作品、探偵小説の引用も豊富で、研究書というより医学と文学の交渉を物語る啓蒙書ともいえる。
(中略)
「殺人論」はあらゆる角度から、殺人と死について縦横に考察を加えたものである。
 これに引用されている作家は、ルヴェル、ドイル、オップンハイム、岡本綺堂、ラインハート、ドゥーセ、ルネ・モロー、チェスタトン、ハンシュー、ルブラン、ヒューム、ジョセフ・ルノオ、ガナチリ、トウェイン、ガボリオ、リーヴ、ポオ、オルツイらであるが、フリーマンの作品が多いのはその作風から当然といえよう。
(「第二十三章 孤蝶と不木」)

9月

ふるさとに生きる(37) 推理小説の草分け 小酒井不木 / 福田淳

『毎日新聞』 9月13日 夕刊 第3面

 小酒井不木のことを、推理小説界の大御所・江戸川乱歩の育ての親というと、たいていの人は「ヘエー」とびっくりする。そして「ふぼくって、なにものですか」と、ケゲンな顔をする。それほど不木のかつての輝しい存在を知る人は少なくなった。

 幸いなことに不木の妻、久枝さん(六九)=名古屋市瑞穂区瑞穂通三の六=が、いまも健在である。このへんで不木の思い出を聞いてみよう。
「不木が小説を書いたのは名古屋時代の晩年のわずか五、六年に限られています。胸をわずらっての闘病生活でしたので、大半は私が口述筆記しました。作家というと気むずかしい人が多いようですが、不木に限ってそんなことはなかったですね。そういえば、トリックの研究には苦心していました。落語を聞いていながら、これはいけそうだ、なんていってはメモしていました。評判のよかった長編小説“疑問の黒枠”も、私のヒントがトリックに使われています。どんなトリックだったか、いまはすっかり忘れてしまいましたけど…」

小酒井不木年表

『毎日新聞』 9月13日 夕刊 第3面

明治23年(1890年)10月8日 愛知県海部郡蟹江町に生まれる。
明治43年(1910年)9月 愛知一中(現旭丘高校)三高(現京大教養部)を経て東大医学部へ入学。
大正6年(1917年)12月 東北大学医学部助教授となり、同時にアメリカに1年間留学。
大正8年(1919年)6月 イギリスに留学、ロンドンでかっ血、ロンドン、パリで静養。この間、海外の推理小説を読みふける。
大正9年(1920年)9月 小康を得て帰国。
大正10年(1921年)9月 任地の東北大学にゆかず、郷里で静養、そのまま東北大学を退職。このころ雑誌『新青年』などに推理小説の随筆を発表、文名あがる。
大正12年(1923年)10月 名古屋市昭和区桜井町2の5の新居に移り、文筆生活をはじめる。
大正13年(1924年)12月 処女作「画家の罪」を発表、小説と取り組む決意をする。
大正15年(1926年)10月 大作「疑問の黒枠」を発表。
昭和4年(1929年)4月1日 急性肺炎で死去。39才。

小酒井先生と私 / 岡戸武平

『毎日新聞』 9月13日 夕刊 第3面

 二年三ヵ月の療養生活をおわって私はいよいよ療養所を出ることになり、何か生活費を得なければならぬハメとなった。前門のトラを追ったかと思うと、すぐ背後にはオオカミが待ちかまえていたわけである。といって時間勤めをするほどの健康でもなく思案に暮れていると、ある人(これはいまは故人となった「医海」という雑誌を発行していた小尾菊雄君)の紹介ではじめて先生に会った。先生もまた同病の経験者であったから同情されたのであろう。
「それじゃあ、ちょうど春陽堂から“闘病術”という本を出版することになっているから、それを書いてください」
 とすぐ仕事が与えられ、素人下宿の二階でぼつぼつ書き出した。月末になると三十円の手当をもらい、四ヵ月ほどかかって書きおえた。大正十四年秋のことである。先生はその原稿に手を入れ、総論ともいうべき一項を加えて発行されると、非常な反響を呼んで本もよく売れた。すると先生は、印税の半分をくださる約束であつたが、それより月々手当を出すから引き続いて来てくれないかという話で、それから私の北丸屋(現名古屋市昭和区桜井町)通いがはじまった。昭和四年先生がなくなると「小酒井不木全集」(改造社)を出すために東京へ移住し、その仕事が終わると博文館へはいった。全く今日あるは小酒井先生のたまものである。(作家)