『め』 第5号 9月8日発行 名古屋文学学校
→ 初出:『ペン』第3号〜第8号(掲載年不明)
由来名古屋には作家が育たないということをいわれた。どういう意味かはつきりしないが、おもうに名古屋に作家の温床となるべき出版文化事業の乏しいこと、名古屋人の性格として、貧困に耐えてもなお文学一本に生き抜こうというねばりのないこと、文科志望の学生がほとんど東京に出て勉学すること、またその学生の親が学科を選ぶにはなはだ実利的で、文科をきらつたこと等にあるのではないかと考えられる。
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しかし、これは明治、大正年間の話で昭和になると、おのずから話もちがつてくる。まずその明治時代の名古屋――愛知県といつてもいい――出身の作家を拾つてみると
二葉亭四迷(江戸生れ)
渡辺霞亭(主税町)
小栗風葉(半田市)
村井弦斎(豊橋市)
小酒井不木(蟹江町)
この五氏が「愛知県偉人伝」(昭和九年・県教育会刊行)の文芸家の部類に入つている。(中略)以上五人のうちあくまで郷土に踏みとどまつて作家生活をしたのは小酒井不木唯一人で、いずれも東京・大阪において作家活動をした。まことにものさみしい作家群である。
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純創作の探偵小説をかき出したのは、大正十四年八月号「新青年」に掲載された「按摩」つづいて「虚実証拠」である。代表作は尾崎の紹介(※)にもあるごとく長篇では「疑問の黒枠」短篇では「恋愛曲線」は衆目の見るところであろう。ちなみに「新青年」に連載された「疑問の黒枠」のさしえは、現に知多大野町に健在の春陽会に属する洋画家大沢鉦一郎が描いた。これは私が相談をうけて大沢に依頼したものである。
(※)この前段落で引用されている尾崎久彌の文章のこと。
『広報なごや』 第105号 10月5日発行 名古屋市役所
それまでの探偵小説が、多く十手、取縄、岡っ引の捕物帳式のもので、犯罪捜査にはカンを働かすだけのものであったのに対して、不木は科学知識をフンダンに働かした進歩的なものを書き、斯界に新風を吹き込んだ。その新風が世の喝采を博し、一躍文壇の流行児となったわけである。
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不木の探偵小説趣味は、学術研究が一種の探偵的な仕事であるところから発したものであるが、それが留学先で結核になって療養中、欧米の探偵物を片っ端から読破したことによって、いよいよ深められた。医家としても優れた人であったに違いないが、何んといっても彼の名をあげたのは探偵小説によってである。その翻訳、創作は夥しい数と量で、改造社から十七冊の全集が出ていることでわかるが、このほか全集にない医学論文も少なからずあるし、病気の身で、十数年という短い稼働生涯によくもこんなに活躍したものだと驚かれる。
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しまいに彼は探偵小説界の大御所の観を呈し探偵小説家はもちろん、大小の作家文人が盛んに彼の許へ出入りするようになった。また地もとの文学青年たちが彼の家に寄りつくようになり「耽奇社」というグループを作り、彼を中心として文学を論じ合った。
推理力、数学力が非凡であると同時に記憶力が非凡で、門下生がモノをたずねた場合「それは何んという書物の何ページにある」と頁数まで覚えていて舌を巻かしたという話もある。
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嗣子望氏は医師となって東京に住み、未亡人久枝女史は瑞穂区瑞穂通三ノ六に健在、すみれ洋裁学校で教鞭をとっている。