『野球人国記』 誠文堂 6月20日発行
運動体育を以て本校の精神とするといふのが日比野先生の宣言だから、運動競技を重んじたことは今更いふ迄もない。(中略)
だから愛知一中には運動を了解しないやうな生徒は一人もなかつた。死んだ医学博士小酒井不木(光治)なんかも野球部のマネーヂヤーとして大いに働いた一人であつた、不木は病を得てから本業の医学をやめて文士として名を売つたが、秀才で吾々の試験前における生字引であつた。中学時代から文章をよくし、神戸外人を一蹴した時、不木が学校の玄関前に名文を綴つてはりつけたのを今でもはつきり覚えてゐる。不木の生れたところは加藤清郎と同じく海部郡福田村といふところで、中学四年の時かに親父を失くし義理ある母に孝養を尽した。大体苦学をして高等学校や大学を卒業した男だが一中を卒業した時、彼の義母は彼を手許から離すことを非常にいやがつて上級学校の入学を許可しない。日比野先生は再三福田村にその義母を訪問して説得に努められた、こゝにも先生の温情が溢れてゐやう。先生は不木の学才を認めたよりもその人物を惜んでかくまで熱心に足を運ばれたのであつた、しかし母人は中々承服しない、その内とうゝゝ高等学校の願書締切当日が来た、不木はその時補習科に籍を置いたので力なく登校して見ると、校長は待ち構へてゐたやうに、三高へ願書を出すことを勧めた、不木が「母が」といふのを抑へつけるやうにして万事俺が引受ける、兎に角願書を出せといはれたが、もうその日が締切なのだから郵便では間に合はぬ、そこで矢張り不木と同じく野球部のマネーヂヤーであつた川崎といふ生徒に頼んで京都へ急行させた、川崎は今三輪と改姓して現在矢張り医学博士で北海道大学の教授をしてゐる、この時の受験料など無論校長が出してやつたので、試験にパスしてから、校長は義母を説いて納得させ、後年の小酒井不木を作つたのであつた。不木もこの恩義に感泣し恩師のことを忘れなかつた。惜いことに不木は死んだ、しかしあれまでに持ちこたへ闘病術を試みたのはやつぱり君、一中において野球生活をなし、日比野先生の飽まで打勝てといふ精神に感化された結果、五年なり十年なり生きのびたのだ、俺は不木が死んだ時心から彼の冥福を祈つてやつた。不木なども日比野先生にお前は野球部へ行けと命令された方なんだが、不器用なため選手になれずマネーヂヤーとなつたわけだ』
伊藤寛一和尚はかう語りながら、一中の校友会雑誌学林を引き出し、こゝに不木が書いた野球の思ひ出がある、一寸見給へと示してくれる。
――いふまでもなく、そのころ母校の校舎は片端にあつた。七間町と呉服町の間に、あやふげな黒板塀で囲まれてゐたグラウンドの姿が、一ばん印象に鮮かである。ホームベースのところに桜の老木が一本あつたやうに記憶する。その老木の根元に腰を下して、選手達の猛烈な練習を見てゐる無心さ! そのころの野球選手は大てい私と同じクラスで、中野、伊藤、久保など何処へ出しても恥かしくない人達であつた。鵜飼、加藤の黄金時代から一中は野球で天下に名をなしたものである。今もなほ一中軍の試合が新聞に報ぜられるごとに勝敗如何にと気が揉めるのは、まことに当然のことである。――(小酒井不木)
『猟奇』 9月1日発行
『探偵趣味』 平凡社 11月10日発行