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小酒井不木筆名考

 小酒井不木――本名、小酒井光次。
 1911(明治44)年、処女小説「あら浪」を発表するにあたり「不木生」というペンネームを使用、のちに本格的に文筆の仕事を手掛けるようになり、「小酒井不木」のペンネームで活躍した。また、1923(大正12)〜1924(大正13)年頃には翻訳作品を発表する際に「鳥井零水」というペンネームを使用していたこともある。

 ここでは「小酒井不木」というペンネームについて、雅号「不木」の由来を紹介すると共に「小酒井」姓の読みについて考察する。

 まず雅号「不木」の由来と意味については、下記の二つの資料によって明らかになっている。

小生幼時より馬琴の小説を好み候が、その「内隠れて後顕はるゝは君子なり」又「尺蠖の伸びんとするや先づ其の身を屈す」といふ言葉に共鳴し、この言葉を修養の基と致し候が、この意味を雅号にあらはさんと考へしのが不木の二字に候。即ち不の字は木の字の頭を引きこめた形(■)(注1)不の字に頭をつけると木の字と相成るべくこれによつて、始めは頭をなるべく引きこめ、後頭をもちあげるやうすべきこと、即ち隠れて後あらはるゝといふ意味にこの二字を選び候次第に候。「ふぼく」と発音致居候。
 よく人は「木石ならず」といふ言葉から取りたるものならむと言ひくれ候(注2)が、其の真実の意は以上の如くに候。(注3)
小生の雅号は中学時代につけしものをそのまま用ひて居ります。はじめに頭角をあらはさず後に頭角をあらはすのが本当の人間だといふような言葉を漢文でよみまして(注4)、それをそのまま雅号にしたので御座います。不の字に頭をつけると木の字になります。不は頭をひきこめた貌 木は頭を出した形で御座います。お笑いまでに。(注5)

 小酒井不木のいう「馬琴の小説」について、具体的な作品名を特定出来る情報は今のところ見つかっていないが、参考までに「尺蠖の伸びんとするや先づ其の身を屈す」のフレーズに該当する例を挙げる。「内隠れて後顕はるゝは君子なり」のフレーズに該当する例は未見である。

尺蠖の伸んとするとき、且その身を縮むといへば、窮達時あり、運によるべし
(『南総里見八犬伝』 第六輯 巻之三 第五十六回)(注6)

「小酒井」姓の読みについては、小酒井不木自筆の絵画にアルファベットで「Kosakai」とサインがあること、また、不木の孫にあたる小酒井治氏が「こさかい」と名乗っており、父親(小酒井望氏)も「こさかい」と名乗っていた、と証言していることなどから、「こさかい」に特定して差し支えないと考えられる。(注7)
 従って現在は「こさかい」「こざかい」という二通りの読み方が流布しているが、筆名「小酒井不木」は「こさかいふぼく」と読むのが妥当であろう。


(注1)初出では「木の字の頭を引きこめた形」を現した記号が示されているが、本ページでは表示不能の為省略した。

(注2)これは当時の人間に限った想像ではなく、『歴史ウォッチング Part2』(名古屋テレビ編・ひくまの出版・1987年11月刊)「推理小説の草分け――小酒井不木」における連城三紀彦の発言にも、「『我は木石にあらず』という言葉がありますね。それで、本当は、不木石とでもつけたかったんじゃないかと思うんですが、あの人はたまたま『医者』つまり『医師』だったものですから、『医師にあらず、石にあらず』とよばれるのがこまるので、石という字をはぶいたのです。」 とある。

(注3)「不木の雅号に就て」(桑原虎太郎・『犯罪学雑誌』昭和4年5月号)に引用されている桑原虎太郎宛書簡より。小酒井不木追悼特集の一編として執筆されたものだが、桑原はこのペンネームについて、「雅号を付けるにも、君が謙譲の美徳と、自分の一大抱負を含蓄せる処、君の面目が我々の胸に響く思ひが致します」と感想を述べている。また、座談会「憶い出の不如丘と不木」(『医家芸術』昭和48年2月号)の席上、「木石にあらず」説を唱える中島河太郎に対して椿八郎がこの記事を披露し、「自分はいま勉強中だ、まだ木にならないんだ、木の下にいるんだけれども、勉強して、これから木になろうと思うという、非常に謙遜した名前なんです」と私見を述べている。

(注4)『易経―周易繋辞下伝』にある「尺蠖之屈、以求信也。」のことと思われる。

(注5)小酒井不木より後藤道政宛て・昭和2年10月15日付書簡(蟹江町歴史民俗資料館所蔵)より。

(注6)『南総里見八犬伝(三)』(岩波文庫・1990年7月16日発行)より。

(注7)蟹江町歴史民俗資料館の伊藤和孝氏の調査によれば、不木が育った蟹江町大字蟹江新田字大海用地区の「小酒井」一党は「こさかい」と発音するが、蟹江町大字蟹江本町地区では「こざかい」が多い、とのことである。伊藤氏からは、地域的な観点からも「こさかい」と読むのが自然であろう、との私見を頂戴した。

(公開:2001年1月30日 改稿:2009年1月19日 最終更新:2009年1月19日)