小酒井不木はその随筆の中で何度か処女作について具体的に言及している。
そこで明らかになっている情報によれば、題名は「あら浪」で、大学一年の冬に書き上げ、「京都日出新聞」に連載――と、タイトルも初出紙も年代も全てわかっている事になる。しかしこれだけ明示されているにも関わらず、現在までその所在確認や内容確認は何人の手によってもなされていなかった。いかなるマイナー作家を例にとっても、その作家の処女作というのはそれなりに注目されるものであり、ここまで無視された「処女作」というのはあまり例を見ない。これは極めて不思議な現象であると同時に、小酒井不木という作家に対する読者の探求的興味が、残念ながら未だその程度のレベルに止まっているという事実を如実に物語る。そうした意味でやはり小酒井不木というのは、超有名なマイナー作家と言うべき存在なのだ。
今回「あら浪」の翻刻連載を開始するに当たり、その成立について不木自身の残した文章を参考に多少の解説を加え、理解の一助とする事にした。しかし本音を言えば解説などどうでもよいのであって、とにかく小酒井不木の処女作の実体を、読者諸氏が自分自身の目で確かめてもらえればそれで良いのである。
【作品成立・その動機】
繰り返し作者の手によって書かれる事になる事実であるが、不木は大学進学をめぐって継母の強い反対にあい、彼女を説得する条件として強い経済的負担を強いられる事になる。最低限の仕送りでは参考書が購入出来ず、小説を売って学資にする事を思いついた、というのが創作の直接の動機である。
また、大学の友人との会話の中で、小説を批評するだけでは駄目で創作が出来なくてはならぬと言われた為、幸田露伴の創作デビューが二十一歳の時であったという事を意識して、今まさに二十一歳である自分にも創作の才がある所を友人に見せつけたかった、という一面もあったようだ。
【作品執筆・掲載まで】
大学一年の十月から構想に約一ヶ月をかけ、三十回分の原稿を仕上げた不木は、京都の友人にそれを送り「京都日出新聞」に売り込みを依頼する。交渉は成立し、原稿は一回につき五十銭で買い取ってもらえる事になった。そこで不木は冬休みをかけて残りの原稿を仕上げ、全八十回の「あら浪」は「京都日出新聞」にて翌年三月から連載される事になる。
何故「京都日出新聞」という地方メディアを選んだのか、具体的な事情はわからない。恐らく何の人脈も持たない一大学生の原稿をすぐに買い取ってくれるメディアとして大新聞よりも地方新聞を必然的に選択したのではないだろうか。また、高校時代を京都で過ごした不木にとって馴染みの深い新聞として「京都日出新聞」が選ばれたのではないかとも推測出来る。
【連載開始・ペンネームについて】
「あら浪」は明治四十四年三月四日から五月二十三日まで、一回の休載を含めて毎日連載された。作者の名は連載予告の段階では「二六軒」というものであったが、連載開始時に「不木生」と訂正されている。(「不木」という筆名の由来については、別資料「小酒井不木筆名考」に引用した小酒井不木自身のコメントを参照の事。)
大正十年以降、不木は文筆家として本格的に活動を開始し「小酒井不木」のペンネームは非常に知名度の高いものとなるが、それ以前、大正四〜六年にかけて雑誌に寄稿していた頃には「不木」の筆名は特に用いておらず、本名の小酒井光次で発表していた。従ってこの「あら浪」はただの処女作というだけでなく、「不木」というペンネームの公式的なスタート地点でもある。他方、予告に現れた「二六軒」というペンネームの方は他で使われたという記憶もなく、読み方もその由来もよくわからない。現在のところ謎の筆名のままである。
【連載終了・「あら浪」以後】
「あら浪」の連載終了後、不木は学業を重んじ、創作に関わる活動は一時中断する。次に不木が本名で著したのは、哲学書とも科学書ともつかない非常にユニークな著作『生命神秘論』(大正四年)であった。また不木は同時に医学雑誌、科学雑誌等に本名で寄稿し、着実に目立った活躍を見せてゆく。しかし大正七年からは海外留学、さらに持病の結核の悪化により療養生活を送るという事情もあり、執筆活動は事実上不可能となる。不木が文筆家として活動を始めるのは、病状がやや安定してきた大正十年以後の事である。現在残されている『小酒井不木全集』(改造社)全十七巻に収められた膨大な著述の殆どは、この大正十年から、亡くなる昭和四年にかけて、たった八年程度の間に書かれたものである。病身でありながらこの凄まじい仕事量をこなした事に関しては、驚嘆と言う外ない。
【「あら浪」・その内容】
具体的な内容についてコメントは控える。ただ本作に関しての不木自身の感想を紹介するだけに止めたい。物語内容に関しては、読者諸氏が自ら作品を読み進めていってくれる事を期待する。
処女作に関するいくつかの文章を読んでも、不木がこの「あら浪」に素直に愛着を持っていたようには書かれていない。むしろ若気の至り、といった程度で軽く済ませている。
第一、作そのものが頗る平々凡々で、今読んだならば定めし閉口するであらうが、幸に、読まうと思つても読み得ないから、作の内容もどんなものだつたかはつきり思ひ出せず、まことに我慢がしよい訳である。
(「京都日出新聞」・「大衆文芸」大正15年6月号)
作者は「一寸した意地と、参考書を買ふ金が欲しかつたために作られた」、「平々凡々」な作品と簡単に片づけているが、決して忘却しているわけではない。特に本作の冒頭部分――一人の老爺が須磨の警察署に運んで来た行李の中から男の絞殺死体が発見される――という趣向については、作者自身もよほど印象深かったらしく、繰り返し言及しているところだ。
物語はその死体発見から事件の捜査に向かうのかと思えばさにあらずで、若夫婦、自殺志願の女、怪僧、探偵と様々な人物が次々に登場したかと思えば、幼い頃別れた妹の身を案じて探し続ける兄なども現れて、非常にめまぐるしく場面転換しながら進んで行く。その中で特に警察署に届けられた行李詰めの死体、という場面を作者が印象に残しているのは、それが冒頭のシーンだからというに止まらず、作者小酒井不木の趣味に最も合致した一場面だったからであろう。作者自身後に探偵小説作家になるとは思ってもいなかっただろうが、本人の回想にもある通り、本作の中に「探偵小説趣味」の萌芽は既に見えている。
金を作る為に大急ぎで書いた、という意味から言っても、本作は文学青年の芸術観、などというような堅苦しいものとは全く無関係である。むしろ、とにかく小説を書かなくてはならない、という状況下で書かれたこの「あら浪」は、良くも悪くも通俗的新聞小説の典型そのままであり、作者小酒井不木の作家的資質が無意識のうちに通俗的な領域を指向している事の証明となり得るだろう。もっとも、作品の詳細な読み込みによる質的・骨格的な分析は、今後更に踏み込んだ形で行わなくてはならず、現在のところこれ以上の推測は避ける。
(参考文献)
小酒井不木「雑感」(「新青年」大正15年2月号)
小酒井不木「京都日出新聞」(「大衆文芸」大正15年6月号)
小酒井不木「苦労の思ひ出」(「大衆文芸」大正15年9月号)