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小酒井不木関連資料をめぐって

「小酒井不木関連資料」の内容については、コンテンツ「小酒井不木資料館:小酒井不木関連書一括」を参照のこと。

 今回の特集の中心である、小酒井不木関連書一括。それにまつわる周囲の状況などを書きつづってみる。とりとめがない上に読者諸氏にとって周知の事柄も多く、また筆者の不勉強故の誤りもあろうかと思うが、前者においてはご寛恕を願い、後者においてはご教示を賜れたら幸いに思う。

■小酒井不木の死をめぐるあれこれ

 小酒井不木は、昭和四年四月一日に急性肺炎の為亡くなる。肺結核という持病を持ち体調のすぐれない日が多かったとはいえ、逝去前日まで原稿や手紙を書き続けており、この時の容態急変は関係者にとってかなり意外な出来事だったようだ。一日の通夜に出席したのは遺族のほか、那須太郎(茂竹)、荒川友二、鶴見樂次郎、齋藤大二郎、本庄(本荘?)實、岩田芳夫、加藤健一(憲一?)、國枝史郎、岡戸武平、松村長之助(潮山長三)、加納友雄ら。(注1)東京在住の探偵小説作家らは全く間に合わなかった。このあたりの事情を記したものとして、江戸川乱歩の『探偵小説四十年』を挙げておこう。

「二銭銅貨」の推薦文以来、何かとお世話になった小酒井不木博士がこの年四月一日逝去された。一日の午後から夜にかけて、私の家へ各新聞社がおしかけて来た。名古屋支局から、小酒井さん逝去の電話があったからである。私は小酒井さんから二日前の三月三十日付の手紙を受取っていたので、この急逝は実に意外であった。一時は真偽を疑ったほどである。たしか、名古屋のお宅へ電話をかけてたしかめたのだったと思う。いよいよ本当となると、私はすぐにも名古屋へ駈けつけなければならなかった。しかし、その惶しい出発の前に、読売新聞と万朝報の文芸欄に小酒井さんの思出を執筆しなければならないことになった。読売は三回連載、万朝は二回連載であった。それを書いておいて、翌日の汽車で名古屋に立った。三日の葬儀に列するためである。(注2)

 乱歩と同じように東京から駆けつけた森下雨村なども、恐らくは同様の慌ただしい状況にあったのではないかと思う。東京からは乱歩、雨村の他、長谷川伸、大下宇陀児、横溝正史、水谷準らが葬儀に参列している。地元名古屋には友人の医師をはじめ、不木が医学研究方面で面倒を見ていた弟子も大勢いた筈なのだが急な事態に全く対応出来ず、結局不木の助手を務めていた岡戸武平が一人で葬儀万端を手配した。(注3)この時岡戸は葬儀の手配だけでなく各社メディアの取材にも対応しており、『名古屋新聞』四月二日号には訃報記事と並んで「博士の死は決して結核ぢやない」というコメントを寄せている。これは『闘病術』の実践者小酒井不木の死因を結核と思って落胆する読者のないように、という配慮から来るもので(死因は感冒をこじらせた為の肺炎)、こうした岡戸のきめ細やかな心配りには注目すべきところがある。
 この時新聞記者達に語った乱歩、雨村、国枝らの談話が相当な数に上る。中には聞き書きをした記者の誤解・取材不足による事実誤認と思われる部分も多く、これらの文章そのものは資料的価値が高いとは言い難いのだが、探偵小説文壇を支えていた重鎮の死がもたらした混乱と狼狽の様子は非常によく伝わってくる。
 小酒井不木の死をニュースで取り上げていた紙面には『読売』『万朝報』『大阪朝日』などの他に、『報知』『東京朝日』『時事新報』『名古屋新聞』『新愛知』他がある。地元紙である『名古屋新聞』『新愛知』の二紙は当然ながら不木の死を大きく取り上げ、殊に当時不木の随筆「お伊勢さま」が連載途中であった『新愛知』では絶筆となった連載第七回と併せて、岡戸武平が「『お伊勢さま』の生まれる前後」(四月八日号)という一文を書いて連載中絶・絶筆を惜しんだ。

 新聞の訃報記事に続いて、不木ゆかりの雑誌メディアが小酒井不木追悼特集を組んでいる。
 以下、小酒井不木の追悼記事を集めた雑誌とその内容について、簡単にリストアップしてみよう。

『サンデー毎日』昭和四年四月十四日号
 「小酒井不木氏の思ひ出」國枝史郎
 「耽綺社の指導者」長谷川伸
 「『徹底個人主義』」土師清二
 「梅田ホテルでの話」渡辺均
 「沢田氏を悼む(絶筆)」小酒井不木

『週刊朝日』昭和四年四月十四日号
 「故小酒井博士を描く」(編集部)
 「逝ける小酒井不木氏」國枝史郎
 「小酒井さん」土師清二

『新青年』昭和四年六月号
 「追悼座談会」永井潜、古畑種基、谷口腆、田村利雄、日比野寛、服部綾太郎、長谷川伸、江戸川乱歩、森下雨村、水谷準
 「肱掛椅子の凭り心地」江戸川乱歩
 「小酒井氏と江戸文学」尾崎久彌
 「吾等の一大損失」甲賀三郎
 「先生の余技」岡戸武平
 「名古屋の小酒井不木氏」國枝史郎
 「小酒井氏の思出」森下雨村
 「作家としての小酒井博士」平林初之輔
 「思ひ出の断片」横溝正史

『猟奇』昭和四年六月号
 「私の不木先生(一)」本田緒生
 「四つの写真」江戸川乱歩
 「小酒井さんのことゞも」國枝史郎
 「不木氏の戯曲」長谷川伸
 「死顔」土師清二
 「本業にも余技にも」平山蘆江
 「徹底的に意志の強かつた人」潮山長三
 「小酒井先生を偲ぶ」春日野緑
 「小酒井氏の思ひ出」高田義一郎
 「私の手を握つて」山下利三郎
 「不木氏のこと」角田喜久雄
 「二つの中の一つ」八重野潮路
 「会ひながら会はぬ記」村島帰之
 「不木博士と私」里見義郎
 「噫々・不木」滋岡透
 
『猟奇』昭和四年七月号
 「私の不木先生(二)」本田緒生
 「不木博士の実験室」森下雨村
 「「だしぬけに」の句」渡辺均
 「小春の日」水谷準
 「小酒井先生と私」島村光蓉

 この他未見ながら、雑誌『大衆双紙』が不木追悼に誌面を割いている筈である。
『新青年』は言うまでもなく、『サンデー毎日』『週刊朝日』も探偵小説作家・小酒井不木にとって主戦場といってよい雑誌であったから、追悼特集が組まれたのも当然と言える。両誌への寄稿者――國枝史郎、長谷川伸、土師清二は合作集団「耽綺社」で不木と活動を共にしていた同人である。渡辺均は『サンデー毎日』の編集長。不木の絶筆として掲げられた「沢田氏を悼む」は、三月四日に亡くなった沢田正二郎の為に同月二十七日名古屋で開催された追悼講演会で代読されたものの原稿である。

かりそめにも私は医学を修めて、医学の力の果敢ないことをよく承知して居ります。けれども、三十何歳といふ働き盛りの、しかもかけがへのない尊い身体を救ふ方法がないといふのは、何といふ情ないことでありませう。運命といひ、又は寿命といふ、そんな言葉で、この際片附けられては、たまらないくらゐ、私は沢田氏に未練を持つのであります。(注4)

 肺炎を発病した直後に急いで書かれたとは思えない整った追悼文だが、まさか不木も自分がその四日後に同じような感想を皆に抱かせて逝くとは思っていなかっただろう。

 そして『新青年』の方は『サンデー毎日』『週刊朝日』に輪をかけた大規模な追悼特集を組んでいる。総ページ数二十二ページ。葬儀の折、別室を借りて急遽行われた(注5)という座談会では、不木の恩師・永井潜、後輩・古畑種基、親友・田村利雄、中学校の校長だった日比野寛らが顔を揃え、『新青年』誌上ではおなじみの探偵小説作家という側面だけでない、多面的な小酒井不木の人物像が浮かび上がってくる。追悼文を寄せている中で、尾崎久彌というのは洒落本その他、江戸軟派文学研究の大家として高名な人物である。氏の蔵書は名古屋市蓬左文庫に「尾崎久彌文庫」として収められているが、この蓬左文庫には、不木が蒐集した五百冊余りの江戸期文献もまた同様に「小酒井不木文庫」となって収められている。尾崎の追悼文もまた、探偵小説作家ではない、小酒井不木の別の文学的側面に光を当てたものとして貴重だ。
 とはいえ、小酒井不木の業績が最も大きかったのはやはり探偵小説に関するものである事は疑いようがなく、彼の死がどれほど探偵小説界全体を揺るがすものであったかは、例えば同人雑誌『猟奇』の小酒井不木追悼特集に連なった追悼文の数、錚々たる顔ぶれの書き手からもよくわかる。

 小酒井不木は死んだが、小酒井不木という作家の仕事はまだ死んでいなかった。『小酒井不木全集』の具体的なプランが話し合われたのは不木の逝去の直後である。今回目録に掲載された資料で初めて知ったが、改造社社長からの全集企画申し出の最初の手紙、日付は四月三日になっている。不木の葬儀の真っ最中である。
 全集刊行までの事情は、乱歩の『探偵小説四十年』に詳しい。何故ならば、乱歩こそが不木の遺族に代わって出版社との折衝にあたった当人であるから。
 詳細は省くが、結局『小酒井不木全集』は改造社から全八巻で刊行される事が決まり、早速予約募集のパンフレットが作られた。全集の編集実務を担当する事になったのは岡戸武平である。第一回配本となる『小酒井不木全集 第三巻』の発行日は不木逝去から一月を置かない昭和四年五月二十五日。迅速過ぎるほど迅速な対応で、この全集は抜群の売れ行きを見せた。
 ところがこの企画は第七回配本の『第六巻』刊行時に、全十二巻と改められる。理由は「価値ある原稿を手にしながら、見すゝゝ『全集』より脱することは編輯者としては到底忍びないことでありますし、また故人の業績を永く記念する『全集』の性質として、それは断然増冊すべきが至当である、と云ふ意見に到達し」(注6)たからである。そして結局『小酒井不木全集』は全十五巻、全十七巻と次々に予定を変更。増冊に増冊を重ね、昭和五年十月十日発行の『第十七巻』を以て本当に完結した。人気作家の急逝に便乗した商売、と批判的な目を向けるのは容易いが、結局戦前の探偵小説作家でこれほどまとまった全集を出す事が出来た作家は江戸川乱歩、小酒井不木以外に殆どいない。それには出版事情の変化、読者層の変化など様々な要因があるだろうが、ともあれ小酒井不木に関する限り、没後すぐに全集の企画がまとまり、なおかつ岡戸武平という適任者が編集の労をとったというのは実に幸運な事だったといえる。

■小酒井不木と医学者達をめぐるあれこれ

 探偵小説作家・小酒井不木とメディアとの関わりが『新青年』『猟奇』『サンデー毎日』『週刊朝日』誌上での追悼特集であったとするならば、『医文学』『犯罪学雑誌』が行った追悼特集は、医学者・小酒井不木を追悼する為のものだったといって差し支えない。

『医文学』昭和四年五月号
 「小酒井博士を憶ふ」浅田一
 「小酒井氏の急死を悼む」菅竹浦
 「小酒井不木博士の書簡を辿りて」長尾藻城

『犯罪学雑誌』昭和四年六月号
 「私の敬愛する永井潜先生と三田定則先生(再録)」小酒井不木
 「古今東西の歴史中余の好める人物五名及び医家中余の理想とする人物三名の姓名及び短評(再録)」小酒井不木
 「噫小酒井光次君」永井潜(東京帝国大学教授 医学博士)
 「辱知小酒井君を悼む」三田定則(東京帝国大学教授 医学博士)
 「医界の彗星小酒井君を想ふ」藤本武平二(医学博士)
 「小酒井博士を憶ふ」浅田一(長崎医大教授 医学博士)
 「不木小酒井君を憶ふ」田村利雄(医学博士)
 「文壇に於ける小酒井不木氏」高田義一郎(医学博士)
 「文学者としての小酒井君」森下雨村(博文館編集局長)
 「小酒井君の追憶」武田正通(医学博士)
 「故小酒井博士を憶ふ」大里俊吾(金沢医科大学教授 医学博士)
 「小酒井君の想ひ出」井上重喜(日本医科大学教授 医学博士)
 「小酒井不木博士の死」那須太郎(医学士)
 「小酒井先生と「闘病術」」加藤憲一(医学博士)
 「小酒井先生を憶ふ」岩田芳夫(医学博士)
 「不木の雅号に就て」桑原虎太郎
 「懐旧余涙」桑原虎太郎
 「小酒井不木博士を偲ぶ」古畑種基(金沢医科大学教授 医学博士)
 「小酒井博士と其研究所」古畑種基

『医文学』(医文学社)と『犯罪学雑誌』(金沢犯罪学会〜日本犯罪学会)は誌名通りの医学系雑誌である。『医文学』は長尾折三(藻城)、田中祐吉(香涯)が中心となって発行していた雑誌『医学及医政』の廃刊後、大正一四年に創刊された雑誌で専門的な医学論文よりは、より広範な文化的テーマについての読み物を集めた雑誌。
 不木がこの『医文学』に寄稿していたのは『医学及医政』から引き続いてのつき合い、という部分が大きい。大正十年頃、文筆家として歩み始めたばかりの小酒井不木に、長尾藻城が積極的に執筆媒体を提供したという結びつきだ。
 不木が本格的に文筆で名を上げるきっかけとなったのは、従来言われている通り、『東京日々新聞』に連載した「学者気質」の評判によるものだろう。この中の一編「探偵小説」(大正十年九月十日号掲載)が森下雨村の目に留まり、これが縁となって『新青年』のメインライターとなったという経緯は周知のところだ。しかし不木の文章に目をつけていたのは雨村ばかりではない。『医学及医政』『内観』といった医学系雑誌は大正十年頃には既に不木に対して原稿依頼を多く出している。
 このあたり、文筆家デビュー当時の小酒井不木に早くも各方面が目をつけた、という意味ではないので少し詳しく説明しておこう。
 不木と『内観』の主幹・茅原華山との交流はさらにずっと前、不木が留学生として渡米する以前の大正四年に遡る。(注7)また、長尾藻城との交流は永井潜を介するもので、長尾と不木が始めて出会ったのは不木が留学に向かう春洋丸の甲板上であったというから、大正六年の事だ。(注8)どちらも知り合った時期に関しては森下雨村よりもずっと古い。そうした医学系雑誌と小酒井不木との関係を知る人々にとっては、以下のような意見もまた宜なるかな、である。

 大衆作家として名声を博された事は、決して悪いことでは莫いが、それが果して氏の生命を打込む可き本当の領域であつたかドウかは、他は兎に角、小生自身の深く疑問とする所であらねばならない。敢て進路の選択を●まられたとは言はない、惜むらくは他の方面に、氏の学殖と、文才とを発揮せしめなかつた事、それが今残念でならぬのである。(注9)

『犯罪学雑誌』ははじめ『金沢犯罪学会雑誌』という名称で発行された専門雑誌であったが、二号出したところで発行組織が日本犯罪学会に代わっている。それに伴って昭和四年三月号(第二巻第一号)より古畑種基と小酒井不木が編集を担当する事になっており、不木の急逝により実現はしなかったが「小酒井不木博士と当編輯部と協力して、犯罪の新らしい方面の研究に着手する積りでありましたが、小酒井不木博士が不幸にして長逝せられたので、この方面の研究は暫らく、見合さなくてはならぬ様になりました」(注10)というような動きもあった。
 煩雑に過ぎるのでここで一つ一つの記事内容について言及する事は避けるが、小酒井不木の人柄を知るに、『犯罪学雑誌』の小酒井不木追悼特集は必読である、と申し上げておきたい。

■小酒井不木の書簡をめぐるあれこれ

 不木の几帳面で筆まめな性格は非常に有名だった。

 手紙をよく書かれたのも有名で、氏へ手紙を出して、その返辞を貰はなかつた人は殆どあるまい。時々返辞が遅れたり溜つたりされた時は、病体を押してわざゝゝ出かけて来られ「手紙を取りつぱなしにして済みません、それで参りましたよ。」などと軽い調子でいはれて、愉快さうに話して行かれた。
 そのやうに几帳面であつたので、時々微笑させられるやうなことがあつた。此方でハガキを差し上げるとハガキで返辞をされ、こつちで封書を差し上げると封書で返辞をされ、こつちで此方の町名番地姓名を印刷ズリのもので差し上げると、氏もさうしたもので返辞をされ、こつちで、侍史と書けば氏も侍史と書いて来られ、硯北と書いて差し上げると硯北と書いてよこされた。驚くべき対等さであり、驚くべき他人感情顧慮さであつた。で、つい微笑してしまふ。(注11)

 前に述べたような豊富な人脈に加え、父母や親類縁者、そして読者からの手紙にもこのような几帳面さで一々対応していたのだから、不木の生涯における手紙の執筆量というのは膨大なものだった。その一部は『小酒井不木全集』第十二巻に収められているが、到底これだけでその全貌を窺い知る事は出来ない。『全集』編集の任を受けた岡戸武平が書いている附記には「森下岩太郎氏はじめ、震災の為めに焼失、紛失された方が尠からずあつた」ともある。
 最も有名な小酒井不木書簡といえば、江戸川乱歩が自分宛の書簡を整理・製本し直して一冊の本として所蔵した『小酒井不木より江戸川乱歩への書簡 全』(注12)だろう。これは有名な「二銭銅貨」絶賛の手紙に始まり、不木が亡くなる二日前の三月三十日に書かれた、『空中紳士』の印税支払いに関する手紙まで、全部で百十八通を収めたものだ。『全集』刊行当時これらがもし全部収められていたら、日本探偵小説界にとって歴史的な記録となっていた事は間違いない。しかし全集刊行に際して収められた乱歩宛書簡はたった十三通。これは筆者の推測に過ぎないが、恐らく自分に宛てた手紙の内容を他者に見られる事を嫌った乱歩の方針だったのだろう。
 逆に森下雨村が多数所持していた筈の不木書簡の行方についてはわからない。こちらは実際に震災で焼けたという可能性も高いと思う。今回当目録に掲載されている、雨村から不木に宛てた「二銭銅貨」評の依頼に対する不木の返答は(内容自体は十分推測出来るしその他の資料から推察も可能だが)、是非読んでみたかった。これは全くどうする事も出来ない話だが、素直に残念である。

 本目録に掲載された小酒井家宛書簡の内訳を見ると、逝去直後から遺族に宛てて送られた書簡が数多い。乱歩、雨村、岡戸、国枝といった、よく名前の挙がる人々からの手紙は勿論の事、それ以外にも、田中早苗(友人、田中訳のルヴェルは不木の愛読書)、梅原北明(不木は『グロテスク』に筆を執っていた)ら親交のあった文人、出版上の関わりが深かった大日本雄弁会講談社・野間清治(不木は『キング』のメインライターの一人、また不木の『稀有の犯罪』は講談社刊)から悔やみ状が来ているのは当然だろう。
 内容はお悔やみの他、全集についての打ち合わせの報告や法要についての打ち合わせなど具体的事務的なものが殆どだが、これは時期的に仕方のない話。

■おわりに

 関連書一括の中に、不木直筆の資料として「長生薬綺談」草稿と、句稿集『折折草』が含まれる。また、不木蔵書の一部として『DETECTIVE STORY MAGAZINE』『AMAZING STORIES』などの海外雑誌がまとまって見つかっている。資料についてのデータは目録本文を参照して頂く事にして、以下簡単にこの三点について述べる。

「長生薬綺談」草稿は『帝国生命新築記念号』(昭和四年五月五日発行)に掲載された小説「長生薬由来」の草稿である。本誌は帝国生命保険株式会社の帝国生命館新築落成の記念誌で、加入者に配布された非売品。効果抜群の「若返り薬」を開発して評判の学者・瀬河は自分の経歴を全く明かさない。恋人の霜沢勝子と結婚を望むのだが、彼女の父は自然の摂理に背く発明をする瀬河の事を毛嫌いし……というような物語で、挿画を松野一夫が担当している。 「小説を御寄稿下すつた小酒井不木博士は四月一日名古屋に於て永眠せられ、図らずもこれが記念の御作となりました、「長生薬由来」を書かれながら、遂に人生の不慮に打克ち得なかつたところに愈々生命保険の必要を痛感させるものがあります」という編集後記も決して皮肉のつもりではなく、作者の急死を驚くあまりの言葉なのだろう。

 句稿集『折折草』は不木が俳句を書き留めておいた創作ノートである。不木の俳句趣味はよく知られたところで、前に名前を挙げた那須太郎(茂竹)、あるいは木下杢太郎、石田元季らと機会があれば連句の会などを開いていた。人から求められ書いた短冊・色紙の類も数多く、また、名古屋で「ねんげ句会」を発足したのも元はといえば不木である。没後、石田元季によって『不木句集』が編まれ関係者に配られている。(昭和四年五月刊)

『DETECTIVE STORY MAGAZINE』を不木が愛読していたというのは、例えば「ポオとルヴエル」(『新青年』大正十四年八月増刊号)に以下のような記述がある。

 アメリカに居る時分、毎晩 Detective Story Magazine を読んで、決して読み残しはしなかつたものだが、近頃はこの雑誌と英国の Detective Magazine とを取つて居ながら、一月に三篇か四篇ぐらゐづつしか拾ひ読みが出来なくなつてしまつた。ことに近ごろ、下手の横好きで創作を始めたら、尚更読む暇がないのに困つてしまつた。だから、新らしい作家に関しては自分の知識は甚だ乏しいのである。

 種本というと語弊があるかもしれないが、これらの雑誌の内容から不木が創作のヒントを得たり、創作のスタイルを模索する上での参考にしたり、という事も少なからずあったであろうと思われるので、今回目録によって収録作家などが少しでも明らかになった事を喜びたい。


(注1)『新愛知』(昭和四年四月二日夕刊)掲載の記事より。

(注2)「小酒井不木」江戸川乱歩(『探偵小説四十年2』・講談社江戸川乱歩推理文庫・昭和六十三年二月)より。

(注3)岡戸武平『全力投球―武平半生記―』(中部経済新聞社・昭和五十八年十二月三十一日発行)

(注4)「沢田氏を悼む」小酒井不木(『サンデー毎日』昭和四年四月十四日号)

(注5)永井潜「噫小酒井光次君」(『犯罪学雑誌』昭和四年六月号)に、「別室では耽綺社と雑誌『新青年』の催しにかゝる故人の追悼座談会も開かれた」とある。

(注6)「ニュース」(『小酒井不木全集 第六巻』昭和4年11月25日発行・第7回配本に挟み込み)

(注7)茅原健「医学博士 小酒井光次」(『ふるほんや 第7号』昭和六十二年三月三十一日発行)

(注8)長尾藻城「小酒井不木博士の書簡を辿りて」(『医文学』昭和四年五月号)

(注9)菅竹浦「小酒井氏の急死を悼む」(『医文学』昭和四年五月号)

(注10)「紫錦台便り」(『犯罪学雑誌』昭和五年二月号)

(注11)國枝史郎「小酒井不木氏の思ひ出」(『サンデー毎日』昭和四年四月十四日号)

(注12)翻刻テキスト「小酒井不木より江戸川乱歩への書簡 全」

初出:『芳林文庫古書目録 探偵趣味 第十四号』(平成15年6月発行) 改稿:2009年1月19日

(公開:2009年1月19日 最終更新:2009年1月19日)