39歳(誕生日を迎える前に没した為)
・3月4日、沢田正二郎が逝去。追悼講演会が同月27日に開催される。
【年譜】
四年三月二十七日 夜、風邪気味にて発熱就床。
四月一日 午前二時三十分急性肺炎にて逝去。享年四十歳。
「梅田ホテルでの話」(渡辺均 『サンデー毎日』 1929(昭和4)年4月14日)
丁度一ヶ月前の三月一日、その日に私は、久しぶりで大阪へやつて来られた小酒井さんに会つて、しかも、今年のお正月、名古屋で会つた時よりも元気だつた小酒井さんの姿を見て喜んだのであつたことを思ふと、まるで嘘のやうな気がしてならなかつた。
「梅田ホテルでの話」(渡辺均 『サンデー毎日』 1929(昭和4)年4月14日)
その三月一日には、私がお昼頃、社へ出かけると、朝から四度も小酒井さんが梅田ホテルから私に電話をかけて来られたといふことだつた。
私は、小酒井さんがそれほど幾度も電話を性急にかけて来られるのは、一体どんな急用があるのだらうかと思つて、梅田ホテルは社のすぐ裏手なので、それから、すぐその足で飛んで行つた。
ホテルへ行つて見ると、小酒井さんは、奥さんも同伴だつた。奥さんは、小酒井さんを置いて、これからどこかへ出かけられるところだつた。
私は、幾度も電話をかけて来られたことについて、どんな急用かといふことを先づたづねなければならなかつた。
しかし、それは、何の急用でもなかつた。
「どうもね、朝早くこちらへ着いたんで、所在はないし、話し相手がほしくて、社へ四度も電話をかけたのでした。」
といつて、それから例の、小酒井さん独特の笑顔だつた。
「不木と演劇」(木下信三 『名古屋近代文学史研究』 第20号 昭和49年5月10日発行)
新国劇の沢田正二郎が逝去したのは昭和四年三月四日のことであつた。その追悼講演会が新国劇名古屋後援会の主催で御園座で催されたのは、同月二十七日。倉橋仙太郎、永島優子、土方与志、西塚寿男、野村清一郎、二葉早苗、久松喜世子、大河内伝次郎、俵藤丈夫らが壇上に熱弁をふるつたが、ひとり不木は病床にあつて出席することができず、代読の形をとらざるを得なかつた。
「父不木の思い出」(小酒井望 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 昭和53年3月1日発行)
階下の部屋で熟睡していた私が母にゆり起され、「お父さんが大変だから、おいで」と言われ、びっくりして二階の父の病室へ上って行くと、寝台(父はずっと寝台を使用していた)の周りには沈痛な顔で祖父(母方)、父の友人の医師二人が立っていた。苦しそうに荒い呼吸をしていた父に、「お父ちゃん」と呼びかけたが返事はなかった。その時どうしたことか突然電燈が消えた。私は思わず「あっ、電球(タマ)がきれた」と叫んだ。母が新しい電球につけかえた時には、既に父の呼吸が止っていた。あとで「坊ちゃんがタマが切れたと言った時先生はなくなったんだね」と父の友人からいわれたことが、不思議に私の記憶に残っている。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
私が江戸川大学乱歩と大阪時事以来はじめて会ったのは、小酒井不木の葬儀の日であった。しかし私が舞台裏での総支配をしなければならなかったので、ゆっくり回顧談をする暇もなく別れてしまった。というのは先生には医学的弟子といった若い開業医が四、五人あって裏に新築された研究室で、先生から与えられたテーマに基いて研究をつづけていた。たぶん学位を取るためであったろう。その人たちが葬儀のことも心配してくれると私は安心していたところ、一向埒があかないので書生の身分で出しゃばるのはどうかと思って遠慮していたが、今いったような事情で一向に捗らぬので、葬儀社を呼んだり、同盟通信社を呼んで各社に流してもらったりした。(この辺は新聞記者の経験があるのでお手のものである)そのおかげで東京、大阪ともに、その日の夕刊に間に合い、死亡通知を出す必要がなくなった。
その日(昭和四年四月一日)の夕刻には江戸川乱歩、長谷川伸、平山芦江の一行や、森下雨村をはじめ横溝正史、水谷準などの博文館勢もかけつけて通夜をするといった順調さであった。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
「あの葬式の世話をしていた男は、一体どういう男かね。なかなか手際よくやったじゃないか」
そういったのは森下雨村である。そこで江戸川乱歩が大阪時事新報時代に同輩であったことから、小酒井氏の文筆助手をしているものであることを説明した。
「では先生が亡くなって生活に困るだろう」
「そう思うね。だから小酒井全集が出ることになったら、あの男を呼んで編集に当たらせたらいいと思うのだ。だが全集はそう長く続くわけでもないから、うかつに呼ぶわけにもいかないしね」
「あの男なら博文館で使ってもいいよ」
そんな話も車中で出たのではないかと、コレハ私の推測である。その後小酒井不木全集は、春陽堂と改造社のセリ合いとなって、条件がよかったものか改造社と決定した。――と同時に私のところへ、五十円の電報為替と、
「ハナシアルスグコイ」(という意味)
の電報が江戸川乱歩から届いた。その用件はすぐ推測された。女房に話すと行先き不安だったわれわれの生活が安定することであるし、これを機会に私は東京へ移住し、作家として立とうと心ひそかに考えていた時だったので、勇躍!(まさに勇躍)当時「緑館」という下宿(戸塚町源兵衛)を経営――といっても奥さん任せの乱歩邸を訪れた。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
緑館をおとずれて話を聞いてみると、月百円の手当で全集の編集をすること、それが終ったら博文館編集部に入社の保証のあることなど、いいことづくめの話であった。そこで一たん名古屋へ帰って、東京で家の見つかり次第移住することを申渡し、私は単身神田の下宿(朝陽館)住いをして、共同印刷へ通うことになった。
(『芳林文庫古書目録(探偵趣味)第十四号 特集:小酒井不木』(平成15年6月)掲載 國枝史郎より小酒井久枝宛て書簡 4月26日
来月五日の法要には…私だけは耽綺社を代表しまして当日は出席仕ります。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
この葬式の最中に私は江戸川乱歩から、博文館で座談会がやりたいといっているから、寺の一室を借りてもらえないかという注文があったので、すぐ和尚に話して座敷を借り、机などを用意した。この座談会の内容は、昭和四年六月一日発行の「新青年」(増大号・五〇〇頁)に掲載されたが、その顔ぶれを見ると、なるほど葬儀の席でなければ一堂に会することのない顔ぶれである。即ち、
(故人の恩師)東大教授 永井潜
(大学同窓)金沢医大教授 古畑種基
(〃)大阪医大教授 谷口腆
(〃)病院長 田村利雄
(中学時代の校長)日比野寛
(一中時代教員)服部綾太郎
それに臨席者として、長谷川伸、江戸川乱歩、森下雨村、水谷準の名があげられている。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
私が博文館に入ったのは昭和四年の八月のことで、小酒井不木全集の編集をしながらでいいからという寛大な条件で入った。仕事は当時横溝正史が編集主任であった「文芸倶楽部」である。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
その頃の博文館(編集部も営業部も)小石川戸崎町の露路の奥にあって、ここは大橋音羽の旧邸で玄関へ入ると右に和風の応接間があった。サトーハチロウや正岡蓉が来てトグロを巻いているのをよく見掛けた。日本橋本町三丁目に近代建築の堂々たる社屋の建ったのは昭和五年のことで、その翌六年に私は横溝氏のあとを受けて「文芸倶楽部」の編集主任になり、昭和八年の正月号を出して博文館を退社した。同誌が廃刊と決定したからである。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2022年9月9日)