38歳
【年譜】
昭和三年一月 自宅隣地に研究室を建て血清学の研究をはじむ。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
父は病気のために断念せざるを得なかった血清学に、最後まで未練があった。死ぬ二、三年まえに、屋敷の隅に研究室を作り、ふ卵器、遠心器など、血清学の研究に必要な器材を整え、夜学に通う助手を一人傭って、実験をしていた。そして開業している二、三の医師が通って来ていた。学位論文の指導をしていたのである。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月十一日
晴、三日目。小酒井氏、部屋へ来訪。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月十六日
晴。道具調べをする。新守座。午前三時までかゝる。
小酒井氏、国枝氏、もともに舞台げいこで写真をうつしたりする。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月十七日
曇、雨、初日。
新守座。三の替。狂言、第一「芸者」。第二「残されし一人」。第三「嘲笑」。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月十八日
打出し後、小酒井、長谷川、土師、国枝、それと、サンデー毎日の渡辺と云ふ男も一緒に、浮栄軒へ、木内側からよばせる事にした。渡辺と云ふ男は、ひどく、気取屋だつた。芝居の感想などを云ひ交はした。概して皆、感謝している訳だつた。二時半迄話合つて戻る。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月廿二日
晴、千秋楽。昼夜売切。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月廿三日
雨。初日。岐阜劇場。満員。狂言、名古屋の通り。
『喜多村緑郎日記』昭和三年一月廿五日
晴、三日目。満員。千秋楽。
「「陰獣」の印象」(小酒井不木 『新青年』昭和3年11月号)
六月初めから、腰痛に悩まされて廃筆のやむなきに至つた。仰向いて寝て居りさへすれば痛みもなく常の通りであるが、筆を執りにかゝると十分たゝぬうちに左の腎臓部が猛烈に痛み出し、不愉快な憂鬱感が全身に漲つて来る。ために昨今では書きたいといふ欲望すら薄らいでしまつた。
【LINK】「日本映画情報システム」:「南方の秘宝」
公開年月日 1929年7月27日
製作会社 小沢映画連盟=マキノ
配給会社 マキノ
監督 小沢得二
原作 耽綺社同人
脚本 佐々木杢郎
撮影 吉田英男
出演者 高田稔/月村節子/山本冬郷
「愈々好評 南方の秘宝/港座に出演俳優挨拶」(『名古屋新聞』1928(昭和3)年8月11日)
港座に上映中の本紙連載、小沢映画聯盟作品探偵奇談「南方の秘宝」全七巻は恐ろしいほどの好評、並びに日活夏期特作、大河内伝次郎、河部五郎、梅村蓉子共演「地雷火組終篇」日活現代劇「沈み行く人魚」も好評にて、本紙読者に限り大々的の割引優待、なほ十三、四の両日は南方の秘宝出演の高田稔、山本冬郷、月村節子一行、小沢得二監督と共に舞台より挨拶すると因に同行中には堀川浪之助、久保田久雄両優も加はる由
(公開:2007年2月19日 最終更新:2019年11月27日)