33歳
・浜尾四郎(27歳)、東京帝国大学法学部を卒業し、司法官試補を命ぜられる。
【年譜】
十二年十月 名古屋市中区御器所町北丸屋に新築移転。文筆生活はじまる。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
父にスエーデンの探偵作家ドーゼの翻訳がいくつかあるが、古畑博士がヨーロッパ留学中に、父がたのんでドーゼの小説のドイツ語版を送ってもらったのがいくつかあると聞いている。
「小酒井不木氏スケツチ」(國枝史郎 『新青年』1926(大正15)年7月)
名古屋市中区御器所町、字北丸屋八二ノ四、鶴舞公園の裏手にあたり、丘を切通した道がある。その道を見下ろした小高台に、氏の住宅は立つてゐる。白茶色の土坡で崖崩れを防ぎ、広く前庭を取り廻はした、和洋折衷の瀟洒たる二階家、まづ数段の石段を登る、玄関に通ずるコンクリイトの小径、その左手は若木の植込、その右手は書斎の外側、窓が二つ(?)光つてゐる。玄関と書斎とは張出になり、玄関の左手が母屋の前庭、そこに一対の藤棚がある。これが大変牧歌的だ。さて私は玄関に立つた。夫人が乃至はお世話をして居られる、親戚の令嬢かゞ案内に出られる。お二人乍ら不在の節は、氏自身が姿を現はす。これは洵に恐縮である。(博士よ、書生をお置きなさいまし。)玄関の正面は二階へ上る階段、玄関の右手は直ぐ書斎で、私は書斎へ通らう。広さ六畳の洋風書斎、壁に篏め込まれた巨大な書棚。それへ掛けられた深紅の垂布、他に巨大な二個の書棚、尚この他に廻転書架、窓に向かつて大ぶりのデスク。――銀行の重役の用ゐさうな、前脚に引出のあるデスクである。デスクの上の雑然たることよ! 併し主人公の頭脳さへ、整理してあれば可いでは無いか。室の片隅にラヂオを据ゑた卓、それと平行した室の隅に身長の高い置戸棚、そこに載せてある器といへば、青年時代の氏の写真(尤も今でも青年ではあるが)小さい可愛らしい七宝焼の花瓶、ひどく旨くない油絵の小品、等、々、々と云ふやうなもの。……戸棚の前に深張りの革椅子。他に籐椅子が二脚ある。さうして最う二つ廻転椅子。――氏常用の椅子である。室の中央に石炭ストーヴ、それから最う一つ瓦斯ストーヴ、書棚には沢山な和洋の書籍。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
大正十二年、関東大震災のあとで、当時名古屋の郊外、鶴舞公園の近くの御器所町に新居を作って、母と三人で移り住んだ。この家は現在も残っている。
一階の玄関わきに洋風の書斎があり、二階の一室に畳の上にベッドを置いた父の寝室があった。母と私は階下に寝ていた。女中を加えて四人の生活であった。
父は午前四時頃まで執筆をし、それから十時頃まで寝るという生活であったので、私が小学校へ行くようになってからは、父と一緒に食事をするのは夕食だけであった。父は比較的少食で、しかも早かったために、食事はすぐ終ってしまい、早々と書斎へ引きあげてしまうことが多かった。
「名古屋作家史」(岡戸武平 『め』 昭和32年9月8日発行)
最近小酒井不木先生の旧宅前に、市の文化財委員の手によつてその旨の標柱の立つことを聞いた。(中略)昔は御器所町北丸屋といつていた。現在は昭和区桜井町一丁目八番地。
昔この家へ行くには鶴舞公園前市電を降りて、公園の中をぬけて倚門橋(いもんばし)を渡り東へ五、六丁行くと、昔の郡道へ出る。その郡道の手前二軒目で、この家へは江戸川乱歩はしばしば足を運んだし、国枝史郎、川口松太郎、土師清二、本山荻舟、平山芦江、その他大衆文芸にその人ありといわれる作家は、ほとんど一度は訪問している。大袈裟にいえば、大衆文芸のメツカであり、事実またこの家から、今日いうところの大衆小説が生れたといつても過言ではない。それは小酒井不木が、当時すでに大衆文壇の大御所であつたという意味でなく、不木が病弱のため外出が思うに任せなかつたからである。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2019年11月27日)