28歳
・加藤四郎(22歳)、東京帝国大学法科大学に入学。枢密院議長浜尾新子爵の養子となる。
・岡戸武平、名古屋新聞に入社。
【年譜】
七年三月 長男望生る。
「西洋初版本漁り」(小酒井不木 『紙魚』 大正15年2月号)
ニユーヨークにはヘーベルといふ医学の古本を扱ふ書肆があつて、そこには十六世紀頃の珍本が沢山あつたが、僅かに十五六ペーヂのもので、百ドル以上もするのだから到底手を出すことは出来なかつた。其処にはアメリカの消化医学の元祖として有名なボーモンの実験記録があつて、値段を聞いて見ると、五十ドルだつたので、非常に欲しかつたけれ共一寸躊躇した。ところが場末の古本屋を探したら偶然にも同じ書が見つかつて値段を聞いてみると二十ドルだと云つたので喜んで買ひ入れた。場末と云へば同じくニユーヨークの下町の古本屋でパリーの衛生学の泰斗パラン・ヂユーシヤトレの「パリーの売娼婦」といふ名著の初版本を見つけた時は、飛び上る程嬉しかつた。
「ポオとルヴエル」(小酒井不木 『新青年』 大正14年8月増刊号)
アメリカに居る時分、毎晩Detective Story Magazineを読んで、決して読み残しはしなかつたものだが、近頃はこの雑誌と英国のDetective Magazineとを取つて居ながら、一月に三篇か四篇ぐらゐづつしか拾ひ読みが出来なくなつてしまつた。
「推理作家群像(5)小酒井不木」(中島河太郎 『小説推理』 昭和48年5月)
そのニューヨーク滞在の頃の話である。ある日、下宿の主人が一冊の大型の雑誌を持って、不木の部屋にはいってきた。
「この雑誌をごらんになりましたか」
「サタデー・イヴニング・ポストですね。世界一の発行部数を持つ通俗雑誌だとは聞いていますが、まだ見ていません」
「なぜ世界一の発行部数を持っているか、ご存じですか」
「知りません」
「続き物のすばらしい探偵小説が載っているからですよ。ぜひお読みなさい。大統領ウイルソンも探偵小説の熱愛者です。探偵小説を読まぬ紳士は話せません」
そこで不木は毎週買って読んでいる「デテクチブ・ストーリー・マガジン」を指し示した。すると下宿の主人は、
「あなたは話せる」
と叫んだというのである。それほどこの種の小説は盛んに読まれていた。六月三日の日記にも、「探偵雑誌アドベンチャーを買い来り読む」という記事が見える。
不木は幼い時分から探偵小説が好きで、ポー、ドイル、ガボリオの本はいつも座右に置いていた。
「推理作家群像(5)小酒井不木」(中島河太郎 『小説推理』 昭和48年5月)
不木は大正六年十二月、衛生学研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカに渡った。翌年二月に妻の出産間近の報を得て、義父に宛てた手紙があり、それには男ならば「望」、女ならば「千早」と命名するように頼んでいるが、男児を得た。それが当主の望氏で、そのお嬢さんに千早と名づけたのは、いわば祖父の遺志を承けたわけであった。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
私が生れたのは大正七年三月であるが、父はその四月くらい前から米国に留学していた。
「日記:大正七年三月二十二日」(『小酒井不木全集 第八巻』改造社・昭和4年12月30日発行)
Friday. 晴。午前十一時に Orthopaedic Hospital に Dr. Coca を訪ぬ。実に気持よき Doctor なり。昼食を共にし後 Medical Library に一寸立寄り後 Cornell 大学に行き Loomis の Laboratory に至り Dr. Torvey, Dr. Hatschel, Dr. Ewing, Dr. Bulkley 氏等種々の Doctor 達に紹介せられて大に愉快なりき。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
血清学の雑誌で、米国で発行されているジャーナル・オブ・イムノロジイというのがある。この雑誌の初代の編集者であるコカ博士とは、ニューヨークのコーネル大学の研究室で一緒だった。その関係で父はこの雑誌に三つ論文を出している。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2020年4月5日)