20歳 東京帝国大学1年生
【年譜】
四十三年六月 卒業。
九月 東京帝国大学医科大学へ入学。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
父と古畑博士の交遊は旧制第三高等学校時代に始まり、父の方が二年先輩であった。
「雑感」(小酒井不木 『新青年』 大正15年2月号)
東京大学の一年級のとき、参考書を買ふ金に窮して、「あら浪」といふ連載小説を、京都の日出新聞に書いたことがある。一回五十銭で八十回書いたのだから、合計四十円。明治四十四年頃の貧乏書生に取つては大金だつた。この小説はもとよりくだらないものだが、金に窮したばかりでなく、一つには友人たちに対する意地つ張りもあつたやうに思ふ。その頃私がよく小説のことを口にするので、友人たちは、口ばかりでは駄目だ、作ることが出来なければといふやうなことを言つたものである。そのとき露伴は二十一歳のときに処女作を発表したといふやうな話が出たところ、気がついて見ると丁度私はその時二十一歳だ。で「よし、俺は今年中に一つ小説を書いて見せてやらう。」と決心して十月頃から、年の暮までに書き上げ、日出新聞に買つてもらつて、翌年三月頃から発表されたのである。誠につまらない意地を出したものだが、金がはひつた時はさすがに嬉しかつた。
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然し、小説などを書いて居ては、学科の方がおろそかになるので、私は、小説を書くことをふつつり思ひ切り、恩師の家に書生をさせて頂いたりして学校を卒業し、爾来、短篇小説一つ書いたことはなかつた。若し学生時代に創作に心を寄せて居たら、多少は物の見方も変つて居ただらうに、今はもう、too lateの感がある。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2019年11月27日)