小酒井不木年譜


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1907(明治40)年

17歳 高等学校1年生

【年譜】
四十年三月 卒業。
九月 京都第三高等学校へ入学。

1月

「小酒井不木の中学時代(一)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第158号・名古屋近代文学史研究会・平成18年12月10日発行)
 

「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)

2月

「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
 在学中最後の懸賞英語は明治四十年二月四日に実施されたが、この時は当選しなかった。

「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
 在学中最後の即席懸賞数学は、明治四十年二月一日金曜日の午後一時から二時間行われた(六十四号一三一頁)。
 このときは第二十三等に入選している(六十四号一五三頁)。
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 在学中最後の懸賞国漢文は明治四十年二月七日木曜日の午後一時から二時間行われた(六十四号一三一頁)。このときは第一等に当選した(六十四号一五四〜一五五頁)。問題には、国語(購読・文法)と漢文が出された。
 懸賞課題で第一等になったのは、すべての科目の中でこのときだけである。

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
 父は田舎の資産家の独り息子であったが、その父は早く死亡し、母は生さぬ仲で、教育は中学だけで十分というのを、父の在学した愛知一中の校長日比野寛氏(故人、マラソン王として有名)が説いて三高へ進ませたというようないきさつがあり、その母が死ぬまで学費には不自由したらしい。それで東大へ入って、永井潜教授(故人、生理学者)の家に暫く書生として置いてもらったということである。

「梅田ホテルでの話」(渡辺均 『サンデー毎日』 1929(昭和4)年4月14日)
 それから、つい先頃、私がある雑誌に、私の三高時代の思ひ出話を書いた中に、その頃三高でドイツ語を教へて貰つた成瀬無極氏の話なども書いたのだが、小酒井さんは、それを読まれたと見て、
「私も成瀬先生には習ひましたよ。」
 といつて、それから二人の会話は成瀬先生のことが中心になつて行つたりした。(小酒井さんも三高出身である。)
 小酒井さんは、私よりも四年か五年ほどの先輩だといふことが、この時の話で分つた。それから、暫く、その頃の三高の話や先生の噂などで、大分、話に花が咲いた。

10月

11月

12月

(公開:2007年2月19日 最終更新:2020年4月12日)