16歳 中学校5年生
「追憶」(小酒井不木 『学林』 昭和4年3月10日発行)
私は中学の一年二年のとき、作文が極めて不得意であつた。時々催された懸賞作文に一度も二十五等のうちに入つたことがなかつた。ほかの学科は相当な成績で、袖には金スヂを附けて居たが、算術と作文とは苦手だつた。ある時父に向つてそのことを訴へると、「お前は年が若いからだ。算術も作文も年をとれば上手になるものだ。」と、頗る楽天的な考で、別に二つの学科に上達すべき方法を講じてはくれなかつた。三年の頃から、古今の名文を暗誦するとよいと先生に教へられて、ぼツゝゝと書抜きをはじめたが、名文を暗誦してもやつぱり碌な文章は書けなかつた。四五年になつて、懸賞作文には入賞するやうになつたが、遂に満足な結果を得ず、そのまゝ今日に至つたのであるが、それにも拘はらず今は売文を業として暮らさねばならぬので、つくゞゝ運命の皮肉に苦笑せざるを得ない。
「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
その後また入選するようになり、四年生の二月五日に行われた第四回では、第二十二等に入選した(六十二号七三〜七六頁)。
「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
第三回は同じく四年生の、明治三十九年二月七日水曜日に午後三時から(六十二号七六〜七八頁)、第四回は五年生の明治三十九年十月十一日木曜日に午後一時から(六十三号一四二〜一四四頁)、それぞれ二時間ずつ行われた。
両回とも入選者に小酒井光次の名はない。
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一方、国漢文の即席懸賞問題は、四年生のときに始まっている。
第一回は明治三十九年二月九日金曜日の午後三時から二時間行われた(六十二号七八〜七九頁)。国語・文法・漢文の三題が出され、小酒井光次は第三等に入選した。
「会報 雑誌部 ○役員異動」(『学林』第62号・愛知県立第一中学校学友会・1906(明治39)年7月13日発行)
「小酒井不木の中学時代(四)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第162号・名古屋近代文学史研究会・平成19年12月10日発行)
五年級では乙組の正組長に「小酒井光治」とある(六十二号二〇二頁)。二年級のときと同様に「小酒井光治」と「小酒井光次」が別人とも考えられるため、ここでは、「不木は三年級と四年級では乙組に所属して正組長に任命された」と述べるにとどめておく。
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三年級(五十八号一二九頁)、四年級(六十号一五四頁)、五年級(六十二号五十九頁)は乙組の幹事に「小酒井光次」と記載されている。
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小酒井光次は四年級で編輯員に(六十号一五四頁)、五年級で庶務員に(六十二号五十九頁)選出された。
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不木はこの他に、野球部のマネージャーにも選ばれていた。
明治三十八年度、四年乙組の野球部マネージャーとなる(六十号一七四〜一七五頁)。
五年級のときも乙組マネージャーになっている(六十二号一〇五頁)。
「日比野寛伝 体育への熱意:三、小酒井不木の場合」(『日比野寛』・昭和34年5月11日発行)
彼の父は、彼を法科に進学させるつもりであったが、その死後、義母はほど遠い都へ彼を手放すことを心配して、どうしても進学を許さなかった。当時は名古屋に高等学校のなかった時であるから、中学卒業後、高等学校に進むため旅へ出ることを極端に嫌った義母は、小酒井の向学心を挫くことにつとめた。
これを耳にした、日比野は、義母である人に説いて「息子を手許から放したくなければ、医科に進ませたらどうか、医専ならこの地にあるのだから他郷へ出す心配もない。」と勧めてみたが、小酒井自身が、大学への進学を熱望していたため、義母の進学措止の気持ちには一向影響されるところがなかった。高等学校受験手続きの期日は次第に迫って来るので、小酒井は、とうとういたたまれず、学校へ行って、校長を訪ね、己の決意の次第を語った。そのとき、日比野は、「ともかく、願書だけは出しておかなくてはいかぬ。」といって直ちに入学願書を書かせたが、その日が願書の締切日に当っていた。
名古屋から、最も近い高等学校は当時三高あるのみであったので、願書を郵便で送ってはどうしても間に会わない。どうしたものかと途方にくれていたとき、幸いにも、矢張り同じ様な理由で出願が遅れていた、同級の友人(後に北海道大学教授になった三輪誠)が来合わせたので、日比野の計らいで、小酒井の願書も持って京都まで行って貰うことにした。
「追憶」(小酒井不木 『学林』 昭和4年3月10日発行)
四年級の第一学期に父を失つて、老年の義母と二人ぎりになつた私は、中学を卒業した後、田舎に引込まねばならぬ運命となりかけた。父は法科大学へはひれといふやうなことを言つて居たが、義母は父に死なれて急に寂しくなつたゝめに、私を手許からはなしともなかつたのである。だから、中学を卒業するなり、上の学校へはやらぬと言ひ出した。
すると、時の校長日比野先生は義母を口説いて、手許に置きたければ医者にならせるがよい、医科をやらせてはどうかと、再三勧めて下さつたけれども、義母はやつぱり気が進まなかつた。が、兎に角、補習科だけへは通ふことに頼んで、蟹江の自宅から汽車で往復したが、一月過ぎ二月暮れて六月になると、高等学校の出願期日が目前に迫つて来た。
義母は頑強に我が意をとほさうとする。義理ある仲であるから、強ひて背くことはよくあるまいと親戚の人たちは言つてくれる。私ももう、あきらめようと決心して、それでも未練があつたので、六月十日即ち高等学校入学願書受附〆切の午前、校長室に日比野先生を訪ねると、先生は大へん心配して下さつて、とに角願書だけは出して置いたらどうだとすゝめて下さつた。
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ちやうどその時、同じクラスの川崎君(現在の北海道大学医学部教授の三輪博士)が、事情あつて出願が遅れて居て、その場に来合はせたので、日比野先生は川崎君に二人の願書を持つて汽車で京都へ行つて来るやう取計つて下さつた。念の為に携へて居た写真を添へ、入学受験料五円は日比野先生が出して下さつて、川崎君は、あたふた停車場へかけつけた。
「会報 雑誌部 ○第十一回即席懸賞作文」(『学林』第63号・愛知県立第一中学校学友会・1906(明治39)年12月15日発行)
「小酒井不木の中学時代(一)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第158号・名古屋近代文学史研究会・平成18年12月10日発行)
不木の作文がようやく入賞するのは、五年生になってからである。しかも、二回とも三等に入賞している。
「小酒井不木の中学時代(二)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第160号・名古屋近代文学史研究会・平成19年6月10日発行)
五年生になった第五回の懸賞英語では一気に順位を上げて、第四等に選ばれている(六十三号一三九〜一四二頁)。
第四回、第五回とも、当選者名のほかに、問題文と、優秀な英文和訳が掲載されているが、小酒井光次の和訳は掲載されなかった。
「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
第三回は同じく四年生の、明治三十九年二月七日水曜日に午後三時から(六十二号七六〜七八頁)、第四回は五年生の明治三十九年十月十一日木曜日に午後一時から(六十三号一四二〜一四四頁)、それぞれ二時間ずつ行われた。
両回とも入選者に小酒井光次の名はない。
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第二回は五年生の明治三十九年十月十二日金曜日午後一時より二時間行われた(六十三号一四四〜一四五頁)。第一回につづいて第三等に入選している。国語・解釈・漢文の問題が出された。
「小酒井不木の中学時代(三)」浦部圭(『名古屋近代文学史研究』第161号・名古屋近代文学史研究会・平成19年9月10日発行)
なお、第四回の懸賞数学では、同級の原田三夫が第七等に入選している。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2021年5月15日)