小酒井不木年譜


インデックスへ戻る

1902(明治35)年

12歳 中学校1年生

・横溝正史 5月24日生まれ

【年譜】
三十五年三月 高等科第三学年修業。
四月 愛知県第一中学校へ入学。

1月

2月

3月

4月

「追憶」(小酒井不木 『学林』 昭和4年3月10日発行)
 東陽館が田園に近いところにあつて、日曜日などには植物採集にあのあたりへ出かけたものである。たまには奮発して大池まで写生に来たことがあるが、遙かに東南方を望んで、あの辺が御器所村だと教へられ、さてはあれが有名な沢庵漬の産地か、とても一生涯あのやうな片田舎へ寄りつくことはあるまい、などゝ思つて居たのに、今はその御器所に住む身となつて、郊外らしい気分さへなくなつて行くのを悲しむ運命のもとに置かれてしまつた。
 さすがに第三師団だけは、昔の俤が濃厚に残つて居る。久屋御門をはひつたところにテニスコートがあつて、よくそこへ出かけたものである。初夏の頃、五時にはもう夕食をすまして、それから闇くなるまで其処でテニスをやるのが何よりの楽しみだつた。新緑の頃の御濠端の景色は雄大であつた。友の一人にハーモニカのうまいのがあつて、軍歌などを合唱した気持は思ふだに快い。

 

「日比野寛伝 体育への熱意:三、小酒井不木の場合」(『日比野寛』・昭和34年5月11日発行)
 後年、医博になり、不木と号して、得意の文才を駆って、探偵推理小説に驍名を馳せた不木小酒井光次は、明治四十年に愛知一中を卒業している。在学中を通じて学業は抜群だった。常に試験課題の答案には、名論卓説をもって衆に擢ん出ていた。

「郷土の人 語り草(第10回)小酒井不木」(寺沢鎮『広報なごや』第105号・昭和32年10月5日発行)
一中時代からすでに光っており、当時一中の三秀才といわれたうちの一人に挙げられていた。なお三秀才とは真野毅(現、最高裁判所判事)三輪誠(故人、医博、名大教授で薬学の権威だった)小酒井光次である。

「生いたちと中学時代」(原田三夫『思い出の七十年』誠文堂新光社・昭和41年3月25日発行)
 入学してまもなく親友が二人できた。一人はのちに東大工学部長や日本学術会議議長になった故亀山直人、もう一人の馬島秀夫は私が大学に入ってから消息が絶えてしまった。前記真野毅は中学でも同級であったが、同級生で一番有名になったのは小酒井不木で、かれは組も右の親友二人とともに私と同じであった。
----------
 ある夜二人で劇場へ映画(当時は活動写真)を見にいったら、その頃は親しくなかった小酒井も来ていて、私は映画フィルムのことで、かれと論争をした。私が正しかったのであるが、その時も亀山は私に加担した。

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月

(公開:2007年2月19日 最終更新:2021年5月15日)