0歳
・原田三夫 1月1日生まれ
・森下岩太郎(雨村) 2月23日生まれ
・尾崎久彌 6月28日生まれ
「生いたちと中学時代」(原田三夫『思い出の七十年』誠文堂新光社・昭和41年3月25日発行)
私は明治二十三年一月一日生れとなっているが、実はその二、三日前に生れ、日付は判っていない。
【年譜】
明治二十三年十月八日 愛知県海部郡蟹江町に生る。
「自伝」(小酒井不木 『中京朝日新聞』 大正15年1月?)
明治二十三年十月八日といふのが、戸籍原簿に載つて居る私の生年月日であるが、これが果して正しいかどうかといふことは私自身にもわからない。
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生れた月日は戸籍でわかつて居るけれど、さて、私は何処で生れたかといふことを実ははつきり知らないのである。私の育つた家は愛知県海部郡蟹江新田字宮ノ割六拾四番地であるけれど何でも私は名古屋で生れたといふことを、ほのかに聞いて居るのであつて、名古屋のどの辺で生れたかといふことはさつぱり知らない。
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単に私は生れた場所をはつきり知らないばかりか、私を産んだ母親をも私は知らないのである。母親を知らぬといふのであつて又母親の顔を知らぬといふのであつて、母親の名や母親の生家などについてはかすかに知つて居る。又母親の顔を知らぬといふのは母親の顔を一度も見ぬといふことではなく見たかも知れぬけれども記憶にないといふ迄である。
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よくは知らぬが、事情あつて私は生れ落ちるとすぐ、蟹江の田舎に引き取られ、実父と継母の手に養育されることになつたらしい。
父はその時五十二歳、継母は四十一歳であつた。父は田舎の小地主で、自分も農業に従事し、かたがた役場に勤めて居たらしかつた。が、この辺のことも自分にははつきりして居らぬのである。母には乳がなかつたから二里あまり隔つた村から来た乳母の乳によつて私は育てられたのであるが、その乳母は私の三つの年に腸チブスに罹つて死に、もとより私はその顔を記憶して居ないのである。
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父は私に「光次」といふ名前をつけた。何からヒントを得てつけたのかわからないが、嘗て一分金を見て、その一面に光次といふ名が刻まれてつあたので父は二分金からヒントを得たのかも知れぬと思つたことがあるけれど、これも最早知る由がないのである。たしか高等小学校へ行く時分だつたと思ふ父の晩酌の席に座して、
『お父さん、何故僕に光次といふやうなへんな名をつけたんですか?』(方言をつかつて書く方がよいけれど、近頃では当時の私のつかつて居た言葉を忘れたから、以下、なるべく標準語で書く)と、きくと、
『へんでないよ、ひかりつぐだからいゝ名ぢやないか』と答へた。「光り次ぐ」が何故よいのか私には今でもわからないけれど、別に抗議を申し込んだところで、どうにもならぬのでその時私は追及してたづねなかつた。
(公開:2004年11月29日 最終更新:2020年4月5日)